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April 11, 2020

『ザ ・ライダー』クロエ・ジャオ
梅本健司

[ cinema ]

 この映画の主人公ブレイディ・ブラックバーン(ブレイディ・ジャンドロー)が初めて馬に乗り、広野を走り抜ける姿をわれわれが目にする時、すでにこの映では四十分近くが経過している。確かに白馬が、誰もいない広野を走り抜けるというシーンは美しいし、見ていて心地よい。だが、こうした心地よさにこの映画の本質があるわけではない。
 そのシーンの後、ブレイディが馬を調教するシーンがおかれる。それは『ザ・ライダー』においてとくに時間がかけられ、丹念に見せられるシーンである。なによりもブレイディ役を演じているのは、プロの俳優ではなく、実際にカウボーイであったブレイディ自身であり、スクリーンに映されるのは彼が実際に行なっている調教である。しかしそれらを見ていると調教と呼ぶよりも調律と呼んだ方が近いように思えてくる。人間が自分の思うように動物を訓練しているというよりも、ふたつの身体が、互いのリズムに近づこうとしている。暴れている馬に対峙すれば、そのテンションに合わせてブレイディも飛びねる。そして徐々に動きを小さくし、馬を落ち着けていく。ふたつの身体のリズムが決してひとつになるわけではないけれど、しかし共に走れるように互いの妥協点を見つけていく。もちろんその点は一度見つければ永続的に維持されるものではなく、シチュエーションに合わせてその都度見つけていかなくてはならない。その妥協点の曖昧さのようなものが、ロデオやそれ以外の馬に関わる競技のリスキーな醍醐味なのであろう。
 この映画がブレイディに行なっているのもまさにこのような調律の作業だろう。ブレイディは心身ともにアンビバレントな状況に立たされている。身体的には、頭の負傷で片手が麻痺し、指を閉じたら、開かなくなってしまうことが時折あり、自らの意のままにならないという曖昧さを負っている。さらに、その傷を負いながらロデオに出れば、命を落とす危険性もあると医者に言われている。そのため精神的には、ロデオをこれまでと同じようには続けられないという空漠たる思いを抱えている。身体を犠牲にしてまでロデオに出るという夢を叶えるか、それともまったく別の人生を始めるのか。この映画を擁護できるのは、ブレイディをそういった分かりやすい二元論に導かないという点だ。相反するふたつの人生の可能性のどちらかを切り捨てることなく、またひとつにまとめることもしない。全身麻痺の友人レインのもとを訪れたり、仲間に入れ墨を彫ってもらったりする場面などで強調されるように、ふたつのものがふたつであることを肌で確認し、受け入れ、曖昧さを開かれた可能性として変換していく。そうして、馬と人がかつて見知らぬ世界を開拓していったように、『ザ・ライダー』はひとりの男を乗せて、人生という果てなき広野を発見するのだ。


Amazon Prime Video 及びNetflixにて配信中