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May 1, 2020

第二回「映画までの距離」東風・渡辺祐一さんに話を聞く
結城秀勇、隈元博樹

[ 連載 ]

 4月25日、『春を告げる町』(2020、島田隆一)の「公開」によって幕を開けた「仮設の映画館」。映画作品のデジタル配信というかたちを取りながらも、観客が選択した劇場にも興行収入が分配される仕組みだ。『精神0』の公開にあたって想田和弘監督と配給会社・東風によって生み出されたこの企画は、プレスリリースとともに大きな反響を呼び、5日2日より他の配給会社も含めた複数の作品が「公開」予定となっている。
 ロングランを記録した『人生フルーツ』(2016、伏原健之)、あるいは『主戦場』(2018、ミキ・デザキ)などの話題作を世に送り出してきた東風だが、ただの「良質なドキュメンタリー映画の配給会社」などに留まらないことに、映画ファンであれば薄々気づいているはずだ。『ペコロスの母に会いに行く』(2013、森﨑東)、『コングレス未来学会議』(2013、アリ・フォルマン)などの劇映画、あるいは『息の跡』(2016、小森はるか)や『リヴァイアサン』(2012、ルーシャン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル)といった作品名を挙げるまでもなく。
 今回話を伺った東風の渡辺祐一さんは、「Image.Fukushima」の活動にも関わってきた人物であり、話は日本映画の現在の窮状をいかに乗り越えるかに留まらず、経済そのもの、そしてもちろん映画そのものにも及んだ。

  • 仮設の映画館

  • ――まずは「仮設の映画館」という企画の成立経緯をお話いただけますか。

    渡辺祐一 想田和弘監督『精神0』の公開準備を進めていて、ニューヨークから東京に来た想田監督と打ち合わせをしていたのが3月下旬頃でした。新型コロナウイルスの影響が拡がり、映画館はたとえ営業していてもお客さんが来ない状態が続いていて、想田監督からもこのまま予定どおり劇場公開をするのは、興行面でも防疫の面でも問題があるのではないか、公開を延期したほうがいいのではないか、という意見をいただきました。
     しかしちょうどその頃、他の配給会社も同様の事情から上映の中止や延期を決める動きが重なり、地方の映画館から東風に頻繁に電話がかかってくるようになったんです。新作の公開が延期され劇場の上映プログラムに穴が開いてしまったので、代わりにいま上映できる作品はないだろうか、という相談の電話です。それで、単に僕たちが配給会社として上映延期の決定をすれば済む話ではないのだと気づきました。つくり手と配給が話し合って中止や延期を決めても、実際にはその先のお客さんとの間に劇場がいるわけです。この問題を前に何かできることはないかと、想田監督と東風のスタッフとで話し合い、そこで出てきた苦肉の策が「仮設の映画館」という試みでした。

    ーーヴァーチャルなかたちで既存の映画上映サイクルを再構築するというアイディアには、目から鱗の思いがしました。

    渡辺 ただ、強調しておきたいのは、これは技術的な「イノベーション」では決してなくて、むしろ既存の技術を組み合わせた「ブリコラージュ」だということです。そしてある意味では「反動的な」側面もあると思います。

    ーーそれは絶妙なたとえで、非常に考えさせられます。たとえば多くの劇場が「うちもやりたい」といった声を上げたとして、それは既存のやり方で現実的に拡大公開することとは少し違った意味が生まれてこないでしょうか。

    渡辺 おっしゃるとおりです。『精神0』の場合であれば、すでに上映を予定していた30、40館ほどの各劇場に連絡をして、こういった仕組みでやらせてもらいたいので賛同してほしい、というやり取りを踏みます。
     また、「仮設の映画館」のプレスリリースを出してからは、他の配給会社からも問合せをいただくようになりましたが、まずは資料を送ってこれがどういう経緯と理念で始まった企画なのか理解を得るようにしています。同時に、「仮設の映画館」を利用するのが東風の配給作品だけでは、施策として有効なものにはならないのです。参加する配給会社の数が多ければ多いほど全国津々浦々の多くの劇場により多くの作品の収益が分配されるわけですから。さいわいなことに、『巡礼の約束』(2018、ソンタルジャ)や『タレンタイム〜優しい歌』(2009、ヤスミン・アフマド)を配給するムヴィオラなど、いくつかの配給会社がすぐに参加を決めてくれました。
     基本的な考え方としては、観客がいて、劇場があって、配給会社があって、つくり手がいることで初めて映画の経済が成り立っています。しかしいまは新型コロナウイルスの影響で、観客が安心して劇場に行くことができません。4つの要素のサイクルで回している経済のうちの一カ所にエラーが起きている状態なんですね。だから「仮設の映画館」は、その箇所を緊急避難的にバイパス手術するようなイメージです。インターネット上に映画館を仮設することによって、ひとつのエラーで止まってしまっている経済をもう一度回し始めよう、と。ただしあくまでバイパス手術なので、正常化すればそれはさっさと取り払われなければならないとも思っています。
     また、この仕組みには「副作用」が必ずあります。つまり、もしかするとそれ以前の「映画とは何か」という概念だったり、映画配給とはどういう仕事なのか、あるいは映画館とはどういう場所で、どんな役割があるのかといった職業倫理みたいなものを変えてしまうかもしれないという点です。

    ーーバイパス手術のたとえはとても腑に落ちる思いがします。これまでなんとなく既存のシステムとしてあったつくり手と配給、劇場、観客という4つによるサイクルが、果たしてこれからの時代もひとつの経済システムとして機能していくのか。そのことを問い直す時期に来ているのかもしれません。

    渡辺 ブラッド・ピットがやっている「プランBエンターテイメント」という製作会社がありますよね。僕はあそこがつくっている作品がけっこう好きなんです。『マネー・ボール』(2011、ベネット・ミラー)とか『ワールド・ウォーZ』(2013、マーク・フォスター)とか。現在の状況では彼らの会社名の意味することがより重要になってきた気がするんです。
     経済的な困窮を前にして寄付を募るとか、行政の助成や補償を求めるものはおそらく「プランA」として考えられることで、それは本当に重要なことだと思っています。ただ、それらと同時に、新型コロナウイルスの影響が長期化した場合に備えた「プランB」も必要です。とにかく今回の件でよくわかったのは、これだけ人の行き来が容易になった社会の中で、特定の一部分だけを完全にブロックすることの難しさです。このような社会では、今回の件に限らずまた似たような問題が起こりえます。その時にも使える「プランB」としての「仮設の映画館」なのだと思っています。

    ーーこれまでに僕らが経験してきた災害は、人やものの流通が直接的に困難になるようなものでした。でも今回は、潜在的には人もものもこれまで通りに流通できることこそが問題になっている。これは単にウィルスの問題だけではなく、経済や自然破壊といったことにも関わってきますよね。

    渡辺 話題になった『コンテイジョン』(2011、スティーブン・ソダーバーグ)のラストシーンがまさにそうでしたよね。森を破壊するブルドーザー、そこから飛び立ったコウモリがまたウィルスを運ぶ、というかたちで作品の冒頭へとループしていく。
     でもそれだけに限らず、今回、映画を観て学んだことが本当に役立つなと思うことってありませんか?
     たとえばゾンビ映画もそうですし、『ポセイドン・アドベンチャー』(1972、ロナルド・ニーム)とか『タワーリング・インフェルノ』(1974、ジョン・ギラーミン)もそうですけど、危機が起きた時にどのように振る舞う人間が死んで、あるいは生き残るのかを、僕らは映画から学んでいたぞ、と(笑)。
     後付けですが「仮設の映画館」にもそういう側面があると思うんです。配給会社が利己的に振る舞うなら、上映を延期したり、単純に配信をすればいい。でもすべての配給会社がそのように振る舞ったらどうなるか。仮にウイルスが蔓延している時間を乗り切ったとしても、その後自分たちの配給する映画を上映してくれる映画館自体がなくなっている可能性もある。だから短期的には自分たちの利害だけを考えて上映を延期したり、配信だけをやることはある意味合理的だと思うんですけど、事態を中長期的に考えるなら、ときには利他的に振る舞うことが最終的に我が身をも救うことになるんじゃないかと。それは本当にパニック映画で誰が生き残るのかと同じ理屈じゃないかという気がします。
     「仮設の映画館」のウェブサイトにステートメントを載せていますが、それがこの取り組みの本質だと思っています。東風としてはあまり「ミニシアターがんばれ!」という言い方を積極的にはしていません。必ずしも映画館だけを救えばよいわけではないからです。万人に向けたキャッチーなメッセージを発信するのではなく、先程お話した「副作用」も警戒しながら、できるだけ多くの劇場や配給会社、製作者、それから映画ファンに理解されて賛同いただくことで、この「仮設の映画館」が施策として有効に機能することを願っています。


     「仮設の映画館」にはこの企画のためにつくられたオリジナルマナーCMが付いている。はじめは、自分の家なのにな、とクスリとし、でも一般家庭に配信されるからこそのリスクも作品にはつきまとうのだな、と居住まいを正し、やがてこの「仮設」が取り除かれる日のことに想いを馳せる。決してこれが唯一無二の解決策なんかではないことをその名からして体現する「仮設の映画館」は、だからこそ「ブリコラージュ」する機知と創造性がいまこそ必要なのだと、無数の観客に呼びかける場所になる。


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