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September 11, 2020

『行き止まりの世界に生まれて』ビン・リュー
二井梓緒

[ cinema ]

 もし映画に、この監督にしか撮れないというものがあるならば、たとえその監督でさえも一生にたった一度しか撮れないものもある。『行き止まりの世界に生まれて』はまさにそんな作品だ。監督であるビンが12年間撮り溜めた映像の数々は眩く、彼とその仲間たちの人生を私たちはスクリーンを見ながら辿っていく。なんて贅沢なんだろう。
 ファーストカットで、主人公とその仲間がボードで明け方の大通りを駆け抜ける。奇しくも日本では同日の公開となった『mid90s ミッドナインティーズ』(2018)も同じくスケートボードをテーマにした映画であるが、本作が『mid90s』と違うのは、仲間がボードで駆け抜ける姿を、ビンがともに走りながら撮る点だ。いつだってカメラは仲間とともに動いている。その爽快感は素晴らしくファーストカットからすっかり感動してしまい、この映画はまさに『mid90s』で仲間たちの姿をビデオカメラに収めつづけていた「フォースグレード」のカメラがとらえた世界と同じなんじゃないかと思った。

 主要な仲間は三人いて、彼らはボードで繋がっている。カメラを回す寡黙なビン、彼女の妊娠をきっかけに定職を探すザック、このままじゃダメだと街を出ようと何度も思ってそれができないキアー。彼らが出会ったのは街のパークで、皆家庭に居場所がなく、いつからか行動をともにするようになった。いわゆるフィルマーとしてビンは彼らの技を撮り溜める。そこには会話が当然含まれ、技を記録するための装置はいつしか彼やその仲間への対話のためのものとして、そしていつからか自分たちが受けてきた親からの暴力について聞き語ることでセラピーの装置として変化していく(ビンは自分を密かに重ねていたキアーに「僕が撮っていたことどう思う?」と尋ねる。キアーは「まるでセラピーだったよ」と笑う)。しかし忘れてはいけないのは、この映画はボードという共通点でともに過ごす彼らを映したものであるが、それは彼らがボードでしかつながっていないということでもある。キアーは最後アルバイトで貯めた金で街を出ていく。

 ストーリーが進む中でビンはかつて義父に手を上げられていたことがわかってくる。それは本人の口からではなく、ボードショップの店員の語り、そしてビンとその母親との会話で暴露される。彼は家庭内の暴力に対しておそらくとてつもない嫌悪感を持っているだろう。母親からの謝罪のシーンでの彼の目がそれを物語る。終盤、ザックは自分の恋人に暴力を振るっていることをビンに打ち明ける。しかしカメラを回すビンはその時、怒ることもない(そもそもザックの恋人に「彼が君に暴力を振るっていることを僕から話してもいい?」と尋ねると彼女は「そんなこと絶対にしないで」と答える。ビンはそれを守り、自分からは決してそのことについて話すことはない)。仲間たちの人生がどう転ぼうが、ビンは一貫して仲間にアドバイスや指図することはないのだ。
 記録するということ、カメラは客観性を持つということ。ドキュメンタリーの面白さは、撮る側が故意に解決へと導こうとすることがあったり、もしくは何も導かないということがある点だと思う。それを決断するのはカメラを持つ者だ。私は後者に惹かれることが多い(例えばこの映画をみて真っ先に思い出したのは80年代のシアトルの路上で生活する子どもたちを撮った『子供たちをよろしく』(1984)である)。ビンが寡黙で、自分のことを語らない姿勢を一貫させているからこそこの映画は面白く、それぞれの人生がそれぞれに進んでいく。そして本作の見所は編集力であろう。あくまでボードを中心にストーリーは進むが、その中には家庭内暴力、人種差別、貧困、アメリカ社会における生きづらさが内在している。
 話をすること/聴くこと、この連鎖がセラピーにつながるように、本作では映像を撮る/撮られることが彼らの一種の療法になっていた。つねにビンは走るボードに寄り添い、時間の流れを共有し、時間的にも空間的にもある運動やある流れの中で、"それでも一緒にいること"でしか撮れない映画だった。そして12年の月日を経てラストに映る彼らは別々の道を進んでいく。冒頭に見た爽快感を違った形で私たちは再び感じることができる。

ヒューマントラストシネマ渋谷、シネマカリテ新宿他にて公開中