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March 21, 2021

《第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》『涙の塩』ウラヤ・アマムラ、スエリア・ヤクーブ、ルイーズ・シュヴィヨット インタヴュー

[ cinema , interview ]

本インタビューを読むことで、フィリップ・ガレルがいかに3人の若い俳優たちと誠実に向き合い、彼女たちとともに映画を撮ってきたかが伝わってくるだろう。特に脚本段階では、俳優たちとのコミュニケーションから、細部を柔軟に変えていることが、スエリア・ヤクーブとルイーズ・シュヴィヨットの言葉から伺える。シュヴィヨットの述べた「遭遇するふたつの『若さ』についての映画」という言葉は重要である。
 また、彼女たち3人もガレルに対して誠実であることを貫こうとしてきたことが伺える。そこには不安や動揺も付きまとっていたが、彼女たちはそのことも含めて、非常に正直に話している。監督が俳優に誠実であること、俳優が監督に誠実であること、ヤクーブが最後に引用したガレルの言葉はまさにその方法そのものを表しているだろう。
 このインタビューには登場せず、女優たちに比べてもやや印象が薄いかもしれないが、主人公リュックを演じたローガン・アンチュオフェルモにも注目してほしい。リュックはナレーションにあるように「卑劣さ」を抱える男だけれど、それだけではない。映画中盤が過ぎたあたり、学校の図工室のような場所に入り、右往左往するリュックが映し出される。その場面は物語の中で一見何の効果も持っていないように思える。けれど、ファーストショットで、パリにやってきて右左に首を振り、迷いながらもメトロへの階段を降りていくリュックが俯瞰で捉えられたように、その場面も迷い込む人として彼を提示している。もしかしたら、彼の「卑劣さ」とある種、地続きであるかもしれないその「迷い」は、映画の筋を無理に1本にまとめることなく、ウラヤ・アマムラが語ったように、『涙の塩』が3人の異なる女性の3本の映画でもあることを可能にしているだろう。
 最後にこの翻訳は、週一回通っているフランス語の授業にて、口頭で訳したものを、訳者の責任で書き起こしたものだ。協力して頂いた先生であるエレオノール・マムディアンさんと、翻訳を許可していただいた「カイエ・デュ・シネマ」編集長のマルコス・ウザルさんに感謝の意を表したい。

梅本健司

『カイエ・デュ・シネマ』767号(2020年7月/8月)
現在に横断されて
『涙の塩』は、リュック(ローガン・アンチュオフェルモ)を通して、3つの物語を交差させる。それはジェミラ(ウラヤ・アマムラ)、ジュヌヴィエーヴ(ルイーズ・シュヴィヨット)、べツィ(スエリア・ヤクーブ)による、3人の女性それぞれの物語である。3人は、互いに出会うことはなく、リュックのもとを訪れたり、いなくなったりする。このインタビューでは、彼女たちのガレルとの仕事に関わる「導きの糸」を3つのテーマに分けて発見していく。

コンセルヴァトワールの映画

ウラヤ・アマムラ(以後OA) コンセルヴァトワール(国立高等演劇学校)で、ローガンと私は、この映画が公開されるかどうかも知らずに、バス停で出会うシーンを演じました。オーディションはこれ以上ないくらいシンプルで、重要なのはふたりの俳優の相性だけでした。残りのキャスティングでは、ガレルが私たちに意見を求めてきました。たとえば、クラスのなかでジェミラの友人、ジュリエットを演じられる人はいないかと。そこで、私はアリス・ラヒームの話をし、それから彼女をテストして、すぐに決まりました。コンセルヴァトワールはすでに撮影の準備を済ませていて、ガレルはデジタルカメラで撮影し、授業が終わった後にモンタージュを見せてくれました。私が知っていた通り、彼はワンテイクしか撮りません。それは、フィルムの費用を削減するためだと説明されていたはずですが、私はなぜ授業なのに撮り直しができないのか理解できませんでした。

スエリア・ヤクーブ(以後SY) コンセルヴァトワールで彼の授業を受けるようになって大体一年くらいたった時に、ガレルから、私に合いそうな役が脚本にあるんだと電話をもらいました。授業の間、彼は私たちを観察していて、そこで感じたことから判断したのでしょう。私には、ウラヤ・アマムラとルイーズ・シュヴィヨット、それと私がそれぞれの役に選ばれたことにとても納得できました。私の場合、彼の授業以前に映画出演の経験がなかったことと関係があると思います。彼は、私がカメラの前で有り余るエネルギーを出していて、おそらく、私が演劇と映画のあいだで差異なく演じていることに気づいたのだと思います。そのおかげで、べツィの自由で堂々としている人物像をうまく立ち上げることができました。私自身はべツィとは全然違いますよ。

ルイーズ・シュヴィヨット(以後LC) ガレルが私に役のテストを持ちかけたとき、驚いてしまいました。私の最初の反応は、「でも、彼、私のこと知ってるじゃない!」と心のなかで言うことでした。(ルイーズ・シュヴィヨットは前作『つかのまの愛人』でアリアンヌ役を演じている)。でも、確かにガレルは、その方法で、ローガン・アンチュオフェルモとウラヤ・アマムラのあいだにあったような化学反応を、私とローガンのあいだにも見つけなくてはならなかったんだと思います。私はウラヤとスエリアに以前の経験をしゃべりたかったけれど、それでふたりのガレルとのはじめての共同作業の新鮮さを台無しにしてはいけないと考え、言うのを我慢しました。

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©-2019-RECTANGLE-PRODUCTIONS--CLOSE-UP-FILMS-ARTE-FRANCE-CINÉMA--RTS-RADIO-TÉLÉVISION-SUISSE--


土曜日のリハーサル

SY 毎週土曜日に時間を決めて、一つのシーンを一回リハーサルしていました。それが一年半続きました。それは経歴に関わらず、すべての俳優に行われます。アンドレ・ウィルムに初めて会った時、私はこう思ったんです。彼にリハーサルの必要はないのではないかと。「私は年寄りだから演じる必要もないし、何をやろうが感動的になるんだよ!」と彼が言っていたのを覚えています。毎回一つのシーンをリハーサルしてから、一週間会うことはなく、その間にローガンとのアンサンブルを探す時間がない、この方法が私にはかなり不安だったので、最初に、ウラヤとルイーズとたくさん話し合いました。「フィリップを信じて」とルイーズは私に言ってくれて、彼の作品においては、セリフがパンチラインではないことや、話し合っている時にたくさんのことが頭によぎるのと同様に、セリフを言う時には、こうした気散じから得るものがあることを教えてくれました。この仕事は私には難しかったけれど、ルイーズが初めは導き手になってくれたんです。それから、セリフの中には、いくつか書き直された箇所がありました。セリフが合っていないと私が言ったからではなく、それがうまく機能していないと監督が感じたからです。彼は、私が納得できるような解決策を一緒に探してくれました。セリフがうまくいかないとき、私が自然に口から出るように言い直させて、それを録音し、脚本にそれを入れ直していました。

LC ガレルが私たち俳優の即興を脚本に取り込むとき、まず自分自身と、また彼やジャン=クロード・カリエール、アルレット・ラングマンによって書かれたセリフと向き合っていることに気づかされます。それがこの映画全体に広がりを与えてくれるんです。なぜなら、私たちの即興でうまくいかないことがあると、残りのセリフに影響してしまう不自然なところを彼が整えてくれるからです。シナリオを読んだとき、ガレルが「若さ」、彼にとって遠い「若さ」に興味があるのだと気付きました。私は、シナリオ上で私たちの世代がしなそうなことを指摘することができました。たとえば、恋人に携帯電話を見られるのが怖くてもソファーの下には隠さない。たとえそれが映画的でなかったとしても、メールを消して終わりです。彼は考え込んでいました。そもそも彼携帯を持ってないんです!それから一週間後、「よく考えたんだけど、それは興味深いね」と彼は私に言いました。『つかのまの愛人』のときも、私が演じた人物が、エリック・カヴァラがレポートの採点をしている間に、皿洗いをする必要がないと言ったら、「もちろん、そうだね!」と彼は答えて、そこを変えました。彼が「ノン」というときは、彼の核心に触れる限りです。徐々に、この映画は私たち世代の「若さ」でも、ガレルにとっての「若さ」でもなく、遭遇するふたつの「若さ」についての映画なのだと気付きました。別の時代の若さが現在の若者の身体のうえで照らし合う、そんな物語です。

OA 彼はハッとするようなアドバイスをたくさんくれました。「よく演じようとするな、ただ演じなさい」とか、「的確で、ちょうどよく演じれば、あなたがよく出来たと思っているときの演技以上に力強いものになっている」とか。成績をつけるというのが彼の方法でした。リハーサルが終わると彼は私に20点中16点をつけて、もう一度16点を取ろう思ってはいけないと言いました。次は14点で十分だと。20点満点なんてバカバカしくて、ただ14点でいいんです!私は、またローガンとのキスシーンのリハーサルでガレルに言われたことを覚えています。「撮影の時に、本気でしてはいけないということを忘れないで。何よりも一本の映画のために自分の愛の物語を台無しにさせてはいけないよ」

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ワンテイク

OA 私はルイーズに、ワンテイクのあいだで何か問題が起きた時に、やり直せるのかどうか聞きました。いいえと彼女は答え、またフィリップは撮影の技術的な理由で2テイク目を撮ることはあるが、演技をやり直させるためには絶対にそれをしないことを教えてくれました。撮影の時に緊張であがってしまうのではないかと思ったけれど、実際はそんなことはまったくありませんでした。自分に何が起きても反応できるだけのすべてのことはリハーサルで何度も繰り返し、言葉を交わしてきたからです。撮影前までに経験したこと、前日に頭をよぎったこと、考えすべてが、自然に流れ込むままにします。現在が自分の中を横断するように身を任せるべきなのです。
 現場で彼があげたラッシュを私たちは少しずつ見ていたのですが、それを見ているとき、ここまで撮影監督との繋がりを感じたことが今までなかったことに気付きました。レナート・ベルタが光に細工をするとそれが驚くべき(映画の)マチエールになります。彼は、よく撮影監督が言う言葉を私にも言いました。「光を感じて」。それでラッシュを見た時、その意味を理解しました。私は、クルーゾーの『地獄(L'Enfer)』(1964年) でロミー・シュナイダーの顔が回転する照明によって大きく変容して見えていたことを思い出しました。私が「何もしなくても」、ベルタの照明が私の多くのものを見せてくれました。私が窓に近づこうとするシーンがあって、そこで私が恋人が来ないのだと気付いた、ということが理解できると思います。それを演じるのはかなり難しかったんです。でも、レナートが少しずつどうするかを提案してくれました。「君がゆっくりカメラに近づけば、それだけ君の顔の感情を掴むことができる。君が早くカメラに近づけば、君が先程とは全く違う何かを感じてるいるように思える」。そして彼は最後にこう言いました。「君が成し遂げたことは簡単じゃなかったよ」と。その言葉が私の心を大きく動かしてくれました。私がとても短いシーンのために現場に戻ったとき、より進んだ編集を見ることができました。私たちが映画の中でこんなにも違う三人の女性であることを目の当たりにし、とても驚きました。まるで3本の映画を見たようでした。

LC 撮影のあいだ、ガレルは『パルムの僧院』を読んでいて、私に言いました。「信じられないよ、スタンダールは場所に応じて書き方を変えているんだ。これがまさに僕が映画でやりたいことなんだ」。三人の女性の登場人物各々はそれぞれ別の関係を映画と結んでいます。普通、ガレルは現場で私たちと少ししか話しません。リハーサルで出来ることはやっているからです。それもまた時間を節約する方法のひとつです。彼は俳優にいつも適応しようとする現場の撮影監督や録音技師たちにしか話しません。リュックと私に、ジュヌヴィエーヴが捨てられるシーンで、ひとつだけ演出家としての指示が出ました。「昇りつめて、それが後に響くようにしたい」。その指示にとても動揺しました。その指示は、ガレルがそうすることが映画に必要な瞬間が訪れたと現場にて気付いたからなのです。この嵐のような効果は、ローガンが演じた人物から訪れるべきだったのですが、そうならなかった。そこで、私から嵐を起こすべく、我を忘れて演じました。こうしてそのシーンはリハーサル時とはまったく異なるテイクとなりました。

SY 私の最初のシーンはクラブでのダンスシーンで、べツィという登場人物がまずその身体によって紹介されます。私が長い間スイス代表の第一線にいた体操選手だったこともあり、私が演じた人物は言葉よりも身体で自らを表現します。そのことが役と繋がる多くのものを私に理解させ、受け入れさせてくれました。さらにそのシーンは唯一テイクを重ねたシーンでもあります。ガレルはそのシーンでどの曲を使いたいか、完璧に頭の中にありました。私にはテレフォンの『Fleur de ma ville』がよくクラブでかかるとは思いません。大好きではあるけれど。いつもの彼の作品と同じように私たちはそのシーンを撮影していて、そこには同じくコンセルヴァトワールの教授のキャロリーヌ・マルカデがいました。そのシーンは難しいものではなかったのですが、レピュブリック界隈にあるジブス(クラブ)で撮影する時に、ガレルはロングショットをやめて、私たちを寄りで撮らなくてはいけないことに気付きました。そのシーンはとても身体的であり、毎回ロングテイクでこの一曲まるまるが使われていて、それだけに私たちの身体は疲れによって段々と重くなっていきました。結局、彼は最後のテイクを採用しました。その後で、ワンテイク主義は私を不安にさせました。私は普通、テイクを重ねて、そのシーンを掘り下げるのが好きです。絶えず、相手役とも過ごせるわけではないし、何かを見逃してしまうこともあるから。フィリップは反対するだろけど、もしテイクを重ねられれば、その時理解できなかったものに気付き、役のために自己放棄出来たかもしれません。しかし、ガレルはそんなことは望んではいなくて、彼が望んでいるのはいいパフォーマンスではなく、失敗やアクシンデント、不安を探すことです。彼は私たちによく「空になることを恐れてはいけないよ!沈黙を埋めようとしてはだめだ!」と言っていました。もし私たちが何かをやらかしてしまったり、台詞が出てこなくてなっても、彼は心配しなくていいと言ってくれます。「僕はここにいる、カメラとともに、そして君たちが意識していないことを捉えてみせる。君たちがそれを探す必要はないよ!」

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©-2019-RECTANGLE-PRODUCTIONS--CLOSE-UP-FILMS-ARTE-FRANCE-CINÉMA--RTS-RADIO-TÉLÉVISION-SUISSE--

聞き手=フェルナンド・ガンゾ 
2020年6月24日~25日、パリにて


涙の塩
2020/フランス/100分/モノクロ
監督:フィリップ・ガレル
出演:ローガン・アンチュオフェルモ、ウラヤ・アマムラ、アンドレ・ウィルム、スエリア・ヤクーブ、ルイーズ・シュヴィヨット

地方に住む若者リュックは、美術工芸大学の試験を受けるためにパリを訪れた際、偶然道で出会ったジェミラという女性と短いが情熱的な関係を持つ。父の住む故郷に戻ったリュックはかつての恋人ジュヌヴィエーヴに再会し、ふたりはよりを戻す。しかしジェミラもリュックへの想いに胸を焦がし、その地に会いに来ていた。試験に合格したリュックはやがてパリへと上京していく。

「あらゆる点から考えて、より限られた製作体制(少数の登場人物、短めの作品を短い撮影期間で撮る)へ回帰し、それが方法として定着してから、つまり『ジェラシー』(2010年)以来、フィリップ・ガレルは無駄を削り、省略し、最も重要なもの、核心へと一気に突き進んでいく、そしてそのことが作品を非時間的なものとし、恋人たちを親密に結びつけることになる。『涙の塩』は、それぞれの挿話が、写真機のシャッターの動きを想起させるようなデクパージュや編集によって、そうほとんどまばたきのように開き、閉じていくその様によって目が眩むように魅惑させる。」(シャーロット・ガルソン)

『涙の塩』は3/26(金)、3/27(土)、4/30(金)にアンスティチュ・フランセ東京にて上映予定


第3回映画批評月間.jpg第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって
日程:2021年3月5日(金)〜4月30日(金)
会場:アンスティチュ・フランセ東京
プログラム:画像PDFをご参照ください
チケット:Peatixにて販売中
詳細はこちら

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