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April 13, 2021

『水を抱く女』クリスティアン・ペッツォルト
梅本健司

[ cinema ]

 『水を抱く女』において、しつこいほど繰り返されるバッハのピアノソナタは、何度か急に切断されたように聞こえなくなる。それほど長い曲でもないのだからすべて使っても差し支えないだろうが、クリスティアン・ペッツォルトはそれをしないでブツッと音楽を中断させる。この劇伴の急な停止はどこか映画に亀裂のようなものが生まれた印象を与える。実際にその中断が起こるシーンを見てみよう。
 ピアノソナタがはじめに流れるのは、ウンディーネ(パウラ・ベーア)が不貞男のヨハネス(ヤコブ・マッチェンツ)からカフェで振られそうになったところで、一旦そのやりとりを保留にし、近くの職場、博物館に向かう場面からである。この曲は、ウンディーネが仕事用の制服に着替え、ベルリンの都市史を解説するための広い部屋に行く途中まで流れ、急に中断される。音楽が聞こえる最後のショットは、博物館にある階段の窓から、カフェで待たせているヨハネスを見下ろしているウンディーネの顔のクロースアップだ。そこにオフスクリーンから他のスタッフがもう聴衆が集まっていると、彼女を呼ぶ声が聞こえ、音楽は突如消える。この中断は、プライヴェートなことに頭を悩ませていたのが、その一声で断ち切られ、仕事に向かわなくてはならないウンディーネの心情を描写する役割があると一応は言えるだろう。ただ、それだけではなく、ここにはもっと大きな切断がある。
 『水を抱く女』の主人公ウンディーネは、水の精ウンディーネの神話から着想を得ている。そして神話にあるように自分に対して不貞を働いた男を殺さなくはならない。だから彼女は、迫り来る水の世界から距離をとり、宿命から逃れるべく、都市の歴史家という職業を拠り所にしているようだ。都市の歴史家であり、博物館での解説者という役割は、ウンディーネに遠くから俯瞰で見下ろす視線を提供し、彼女を歴史、ある種の物語の語り部たらしめている。言うまでもなく、ベルリンのジオラマや縮尺図を見るときの視線は自然と上からのものになる。また解説者として、彼女が数多のジオラマがある部屋に入り、最初に行うことは、一帯を見回し、そこにいる客の大体の人数と配置を把握することだ。映画の中で、最初に目にすることのできるウンディーネの仕事場面、彼女が部屋に入ると、カメラは彼女の視線を代行し、ゆっくりとロングショットで部屋全体に対しパンをする。ウンディーネがはじめに立っているその場所と観光客が見学している場所との間には数段の段差があり、やはり自然とカメラの角度は俯瞰気味になる。この遠方かつ俯瞰の視線は、ウンディーネが神話的な世界に戻った後で、水中から男に寄っていくときの下からの視線と対応関係にある。
 こうしてウンディーネは、歴史家あるいはガイドという仕事を通して、神話通りに進むはずの物語を中断させることになる。先程、あえて誤読したが、ウンディーネを悩ませるのは、男に振られたことというよりもその後彼を、神話的な世界に倣って、殺さなくてはならないということだ。その苦悩の一時的な中断が、劇伴とそれを掻き消すオフスクリーンからの声によって表現されている。そのとき、彼女を呼ぶ声が、「ウンディーネ」という彼女を神話的な世界に否応にも接続してしまう呪いのような名前ではなく、苗字の「ヴィブー」と発語していたことも忘れてはならない。

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©SCHRAMM FILM / LES FILMS DU LOSANGE / ZDF / ARTE / ARTE France Cinema 2020

 ところで、職業という主題について話すとき、他のペッツォルト映画とも接続することができる。第一回日本配給作品である『東ベルリンから来た女』(2012年)以降、特にペッツォルトは職業やそれにまつわる技術に対し、葛藤やアイデンティティを見出す人々を描いてきた。『東ベルリンから来た女』において、ニーナ・ホス演じる主人公は医者としての使命を全うするか、それを放棄し恋人の待つ西独へ渡るかということに揺れ、『あの日のように抱きしめて』(2014年)では、同じくニーナ・ホス演じる見た目が別人になってしまった女性が、身元を明らかにするために、声楽家としての歌声を披露する。また、『未来を乗り換えた男』(2018年)においては、生前作家であった他人になりすまし生きることになる男性が、修理工であることに自身のアイデンティティを見出していたことを思い出せばいい。
 ヨハネスと別れた後に、ウンディーネと恋に落ちることになるクリストフ(フランツ・ロゴフスキ)の場合もまた職業が重要になる。われわれもウンディーネも、彼について、クリストフという名前よりも先に、潜水作業員であることを知る。ウンディーネについてわれわれが知った順番とは逆である。また、彼はウンディーネの解説を聞き感銘を受けたと言って彼女の前に現れるが、彼女の解説場面には、上述した部屋を見回すパン撮影やその他にロングショットがいくつかあったにも関わらず、彼の姿は一切映っていない。故に、ある種謎の男として現れるクリストフが視覚的に何者なのかわかるのは、続く彼の仕事場面からである。
 潜水作業員にとって重要なのは、あの分厚い、この職業の象徴となるようなスーツだ。あるとき、クリストフがウンディーネにプレゼントする潜水作業員のフィギュアからもそのことが言えるだろう。ウンディーネはそのフィギュアをまるで彼の分身かのように大切にし、肌身離さず持ち歩いている。加えて、別のとき、ウンディーネはスーツを来た別人に向かってクリストフと呼びかけてしまう。彼の存在はそのスーツとどこか結びついているのだ。

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©SCHRAMM FILM / LES FILMS DU LOSANGE / ZDF / ARTE / ARTE France Cinema 2020  

 さて、途切れた話を再開しよう。『水を抱く女』において、再びピアノソナタが中断する印象的な場面は、映画後半、脳死状態になったクリストフのためにウンディーネがヨハネスを殺した後だ。彼女が川底に沈んでいき、下方へフレームアウトすると、音楽がブツ切りになり、病院で脳死状態だったはずのクリストフが覚醒するショットへと繋げられる。このピアノソナタの中断もまた映画のひとつの断絶を表現している。パンフレット記載のインタビューでペッツォルト自身が発言しているように、この断絶によって、神話的な世界から逃れようとしていた女の物語が、彼女が去った後の陸地で生きる男の物語へと移行する。病み上がりのクリストフは松葉杖で、ウンディーネの自宅や仕事場を探し回るが、もはや陸地に彼女はいないのだから見つかるはずもない。まだ前回のピアノソナタから10分程度も経っていないというのに、早々にあの曲が、彼女の残り香であるかのように流れはじめ、二ヶ月後という字幕が消えるとともに、また断ち切れる。その後のクリストフは、ウンディーネを探すことを諦め、同僚のモニカ(マリアム・ザリー)と恋人関係になり、彼女は妊娠までしている。
 このモニカという人物は、『めまい』のミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)とは言わないまでも、幻想的な側面も持つ恋物語に外部からの視点を与える役割を少なからず担っている。彼女の伝説や不可解なものに対する拒否感が、「信じない」や「ありえない」などの台詞でそれとなく示されるのも重要だ。また、クリストフのイメージと結びついているあの潜水スーツを毎回彼女が脱がしていたことも留めておく必要があるだろう。クリストフの物語になってから、彼女の彼を見つめる不安げな視線は、より意識的に映されることになる。
 ラストシーンはそんなモニカの前で展開される。再開した潜水作業員としての仕事の最中、川底でウンディーネを見てしまい、クリストフはその夜、単身その川に向かう。彼があの潜水スーツどころかウェットスーツすら着ていないのは興味深い。ウンディーネがそうであるように、彼も生身で水の中に潜ろうとする。

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©SCHRAMM FILM / LES FILMS DU LOSANGE / ZDF / ARTE / ARTE France Cinema 2020
 
 ここで、再び話が迂回するが、ペッツォルトの00年代の作品から見た変遷を述べておきたい。ペッツォルトは、男女の不平等な関係を描き続けてきた。ペッツォルトが当時頻繁に用いた演出は、男女が会話をする場面を車の中で展開するというもので、運転席に男性を、その隣に女性を座らせるという図がほとんど維持されていた。確かに、2007年に撮られた 『イェラ』においては、女性の主人公が相手の男性が眠っている間に車を運転するというシーンがあるが、男性は目を覚ますと、自分の思った場所に向かおうとしていないことに腹を立て、 彼女を車から降ろしてしまう。男性が女性をコントロールし、それを受け入れざるを得ない状況となるのがペッツォルトの車中であり、ペッツォルトはその細部の演出を主題化していた。『幻影』(2005年)というレズビアンを描いた作品でその演出が使われていなことは、むしろ車中の演出がそうした主題に結びついていることを裏付けるだろう。
 00年代作品の多くが車の横転や転落で幕を閉じられていたのは、「逃れることへの挫折」という今作でも維持されている主題を視覚的に示すための手段でもあるが、車中で露出した男女のアンバランスな関係がなんらかの臨界点を迎えた帰結とも読むこともできる。たとえば、 2003年に撮られた『ヴォルフスブルク(原題:Wolfsburg)』における車の横転は、女性が運転席の男性をナイフで刺突することで起きており、それは半ば自死覚悟でその歪な空間ごと放棄しようとする女性の身振りであった。かたや、『イェラ』の結末で、車が橋から転落するとき、夫の一方的な心中願望に妻が為すすべなく巻き込まれ、それが完遂されてしまったことを告げていた。
 ところが、『水を抱く女』では車中の演出が使われていないどころか、車さえほとんど登場しない。こうした主題と演出の結びつきに変化が訪れたのも『東ベルリンから来た女』であった。詳述はしないが、ここでは、確かに以前と同じように運転する男性と助手席に座る女性という図は相変わらず維持されていた。ただ、それが男性中心的な関係を迫ることには必ずしもならない。それよりも重要なのが、とある理由から自転車で病院に通勤することになったニーナ・ホスに対して、相手役の男性も同じく自転車で道中を共にしようとする場面だ。言うまでもなく小津からの引用であるが、相手と同じ身振りをすることによって親密になろうとするのはペッツォルト映画にあって、それまで稀なことだった。事実、この映画が描くのは、男女の関係というよりも、医者という職業への葛藤を共有したふたりの人物の横並びな関係であったのだ。

 つまり『水を抱く女』において、クリストフが生身で潜水することとは、『東ベルリンから来た女』のように、共に自転車を走らせるという身振りと結びついているのではないだろうか。結局クリストフは、モニカのもとへ戻ることになるが、この刹那的に実現される再会シーンは実に感動的である。彼は無防備なただの人間であり、神話的な世界にも、水中にも生身のまま耐えられる身体を持っていないが、それでもウンディーネと僅かな時間、対等な状態を維持しようとする。CGを頼らないことに拘ったペッツォルトによって、実際に生身で潜水することになったふたりの俳優の切り返しは、それゆえに鮮烈だ。さらに、その場面が単純にクリストフのロマンティシズムだけに彩られるのではなく、どこか冷酷さを含んでいるのは、クリストフが水に沈んでいく直前まで、それを見るモニカ側からのショットが挟み込まれていたからだろう。
 ウンディーネとクリストフが別れを交わすため、水中での手の取り合いを寄りで捉えたショットとともに最後のピアノソナタが流れてくる。ひとり水中の闇に沈みながら、去っていくクリストフとモニカを見つめるウンディーネの視線と重なり合うラストショットが、エンドロールに繋がれても、これは途切れることがない。最後にわれわれはピアノソナタを聴き終えることができる。同時にエンドロールの最後で、再び暗闇に浮かび出ては消えていくウンディーネの文字がこう告げているかのようだ。これは中断ではなく、永遠の別れなのだと。
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main.jpg『水を抱く女』
2020/ドイツ・フランス/90分/アメリカンビスタ
監督・脚本:クリスティアン・ペッツォルト
出演:パウラ・ベーア、フランツ・ロゴフスキ、マリアム・ザリー、ヤコブ・マッチェンツ
配給:彩プロ
3月26日(金)より新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開中
©SCHRAMM FILM / LES FILMS DU LOSANGE / ZDF / ARTE / ARTE France Cinema 2020
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