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May 3, 2021

『ビーチバム まじめに不真面目』ハーモニー・コリン
結城秀勇

[ cinema ]

 この映画ではムーンドッグ(マシュー・マコノヒー)と誰かが会話するほとんどのシーンで、同じ会話をちょっとだけシチュエーションを変えて繰り返す複数のテイクが撮影されていて、完成した『ビーチバム』という映画の中ではその違うテイクにまたがるふたりの人物がありえない会話を平気な顔で行う。たとえば、ムーンドッグとワック船長(マーティン・ローレンス)が波止場で釣りをするシーンでは、並んで釣糸を海に垂らすふたりと、ビーチチェアに寝そべったふたりが同じ会話をしているのだが、釣竿を持ったムーンドッグは、彼の隣でタコを釣り上げた後にビーチチェアに寝そべったのであろうワック船長(つまりおそらく近未来のワック船長)となんでもないことのように切り返しの対話を行う。
 そんなふうにこの映画では時間の流れなど些細な問題でしかないのだし、だからあくまでもうどうしようもねえ男として登場するムーンドッグが、映画の最後には少し成長するだろうなんて考えるのは大間違いだ。時間のないところに成長なんてあるはずがない。そしてこの時間のなさこそが『ビーチバム』の最大の魅力なのであり、時間がないということはこれはアメリカの東海岸の外れにおける神話なのだ。まるで白鳥に姿を変えてレダを誘惑したゼウスのように、ムーンドッグは妻のブーツを履き、船長の帽子を被り、女性のドレスを着て、女たちを抱き、男たちを魅了する。
 だが神話であることが必ずしも無垢な過去に留まることを意味するわけではない。むしろその逆だ。ムーンドッグはかつてそうあったような才気あふれるアンファン・テリブルではもはやないのだし、死者が甦るわけでもない。それはちょうど、『ガンモ』が台風ですべてを薙ぎ払われた街の物語であったように、『ミスター・ロンリー』がマイケル・ジャクソンにもマリリン・モンローにもなれなかった者たちの物語であったように、『スプリング・ブレーカーズ』がスプリング・ブレイクという怪物になろうとした女の子たちとおっさんの話であったように、「その後」の神話なのだ。
 なにかを成し遂げてほしいという家族やエージェントの期待に応え(?)ムーンドッグは新作詩集を書き上げる。その新作はピューリッツァー賞にまで選ばれて(爆笑)、受賞式でムーンドッグは一編の詩を読み上げる。だがそれは、この映画のはじまりで、まだ「なにかを成し遂げ」たとは思われてない彼がキーウェストの酒場でライヴの途中で読み上げた詩とまったく同じものなのだ。そして、14歳の頃にパクってコンクールで賞をとったというD.H.ロレンスの詩やホームレスたち相手に読むボードレールの詩と違って、ムーンドッグ自身がハバナで書いたことにされているこの詩さえも、彼の詩ではなくリチャード・ブローディガンが書いたものに過ぎない。
 この映画には、ムーンドッグを客観的になにか「価値」のある存在にするための情報が一切ない。にもかかわらず、ザック・エフロンがムーンドッグに向かって言うように、彼は輝いてるし、輝き続けて欲しいと願う。それは、数十年先はおろか数年先すら見通すことのできない大人たちの蔓延したこの幼い社会において、美学的な判断というよりも倫理的な判断だ。時のほぼ止まった、「その後」の神話の世界を生きるムーンドッグは、その中ですらなにひとつ成長せず、ほんのわずかに持続することもなく、花火のように閃く。
 ビーチの下は敷石!


キノシネマ横浜みなとみらい、キノシネマ天神にて上映中

  • 『スプリング・ブレイカーズ』ハーモニー・コリン 結城秀勇
  • 『トラッシュ・ハンパーズ』ハーモニー・コリン 菅江美津穂
  • 【ハーモニー・コリン×ザ・レジデンツ】上映イベント「VHS movies 1984/2009」