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August 5, 2021

雑誌『日常』一般社団法人 日本まちやど協会
隈元博樹

[ book , current montage ]

日常.jpeg 本誌を発行した「一般社団法人 日本まちやど協会」のWEBサイトによると、『「まちやど」とは、まちを一つの宿と見立て宿泊施設と地域の日常をネットワークさせ、まちぐるみで宿泊客をもてなすことで地域価値を向上していく事業である』と書かれてある。ひとつの宿という完結した空間を通じて、飲食や入浴などを提供する場が従来型の宿泊施設であるならば、まちやどとは「まち」全体が大きな宿であり、ゲストに向けたさまざまなサービスをまちの中のあらゆる場に委ねているということだ。しかし、そうしたまちやどの大方の定義を理解したあと、YouTubeで配信されていた『雑誌「日常」創刊記念<編集委員による制作秘話>』を視聴してみると、まちやどに携わる、あるいは運営する方々によって「あなたにとってのまちやどとは?」は微妙に異なっていることがわかる。たとえばまちやどとは、「地元に暮らす人々を演じることができる場所」だと唱える方もいれば、「地域内だけでなく他の地域をもつなぐことのできる媒介物」だと形容する方もいる。新しいお寺、まちの玄関、その反対としての勝手口など、まちやどの位置付けは広義に渡り、言葉の上での定義は掲げられているものの、「まちやどとはこういうものだ」という確固たる実態は存在しない。単なる紋切り型の事業に留まるのではなく、こうして多岐に渡るヴィジョンやイメージが次々に挙げられるからこそ、まちやどの奥行きはよりいっそう深まっていく。
 そんなまちやどがもたらす不確かさは、雑誌『日常』のモノとしての側面においても言えることだ。B6判のサイズに加え、表紙には山の草花や海の海藻などを使って印刷された吉田勝信さんの特殊な装画が施されており、一部ずつが手作業であることからも二つとして同じ表紙はないという。これまで手に取ってきた雑誌とは一風変わった仕様ではあるものの、そのことでステレオタイプな雑誌に対するイメージからの脱却を試みているかのようにさえ見えてくるだろう。とは言え、ページの中心には全国津々浦々のまちやどやまちの中にある製本所、カフェなどを中心としたインタヴューやレポート、コラム、論考が並ぶほか、まちやどのオーナーへ向けたアンケート(まちやどを始めたきっかけのほとんどが、そもそも宿をやりたかった訳ではないという点で滅法面白い)、漫画、まちがいさがし、さらにはクロスワードといった雑誌ならではの内容までもが掲載されている。また、この創刊号には椎名町の「シーナと一平」や谷中の「hanare」といった都内で営まれているまちやどにも触れられている一方、森まゆみさんのコラムや中橋恵さんのレポートによると、イタリアには「アルベルゴ・ディフーゾ」(「分散した宿」)という「海外版まちやど」もあるそうだ。都市と地方、ないしは国内外といった地場や枠組みでは収まり尽くすことのないまちやど。こうした存在形態の不確かさが、特集「ようこそ、まちやどへ。」としてこの130ページ弱の誌面の中で体現されているのだ。
 「まちやどとは何か」、あるいは『日常』の脱雑誌的デザイン(それはおそらく、「雑誌とは何か」という問いかけでもある)を通じて、さまざまな不確かさの奥行きを受け止めつつ、この雑誌のタイトルである「日常」についても触れたいと思う。それは既存の観光事業そのものが、これまで非日常的な体験を得るものであったにもかかわらず、まちやどの存在によってむしろ日常の延長にあるべきものなのではないかということだ。たとえばこれまでの観光とは、少なからず目の前にある日常から逸脱し、普段味わうことのできない非日常を追い求めるものであったにちがいない。しかし、『日常』に並べられたいくつもの言葉から汲み取ることができるのは、まちやどとともに存在する非日常ではない日常への探求であり、それこそがまちやどの本質に近づくことではないかということだ。「まちやどとは何か」「雑誌とは何か」と同じく、「あなたにとっての日常とは何か」について問うたとき、非日常に対するアンチテーゼとしての日常がまちやどに秘められているのならば、自分、もしくは誰かにとっての「とっておきの日常」を更新する旅に出かけてみてはどうだろう......。雑誌『日常』は、数多あるまちやどとともに、そう語りかけているかのような気がするのだった。

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