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October 11, 2021

『ルオルオの怖れ』ルオルオ
渡辺進也

[ cinema ]

 今回の山形国際ドキュメンタリー映画祭はオンライン開催となった。結果、いつものように一日中、映画祭に参加するというのが難しい。今回、日記の方は荒井南さんにお任せして、私の方は作品評という形で参加したいと思う。

『ルオルオの怖れ』はタイトルの通り、本作品の監督であるルオルオのコロナウィルスへの怖れが描かれているのだと、とりあえず言うことができるだろうか。コロナウィルスが報道された2020年の1月から半年ほどの様子。「全ての人が、空気の全てが毒されているのではないかと感じる」「私の心こそがコロナに毒されたのかもしれない」といったコメントが途中途中に挿入される。監督本人は中国のある都市で年老いた父とふたりで暮らしている。テレビが報じるコロナ関連のニュース、窓の外に見える消毒を撒く白装束の作業員、左耳しか聴力を持たない年老いた父親の左側に周り口うるさく注意する様子、スマートフォンをみながらするエクササイズ。父親が書く回想録の朗読。P Cなどを通して中国各所にいる知り合いと交流する様子。

 この作品の大きな特徴はやはり、カメラが家の外へと出ないことにある。半年間、家から一歩も出ずに生活するということなどないと思うのだが、頑なまでにカメラは家の外に出ない。しかも、そこにあって当然であると言わんばかりに、フィックスされたカメラは家の中での様子を映し出していく。
 第一回目の山形国際ドキュメンタリー映画祭で国際審査委員をつとめた、フランスの映画批評家セルジュ・ダネーは、かつて、ドキュメントとドキュメンタリーは、ポルノグラフィーとエロティシズムのように、全く異なるものなのだと書いていた。大衆の覗き趣味に応えるのがドキュメントであり、単純明快な姿をしていない"現実"へと迫ろうとし、さまざまな状況の背後に横たわっている人間性を描くのがドキュメンタリーであるのだと。
コロナ以後の状況が描かれる映画をチラホラみられるようになってきた昨今、そこでは人気のない街の様子を、あるいはマスクをして歩く人々の姿を映してるが、それに比べて、ただ部屋の中を映すことがなんとも魅力的にみえることか。『ルオルオの怖れ』がコロナ禍の日常をただ描いているとは思わない。そこにはある種のフィクションが施されているとさえ思える。そのことが単なるドキュメントではなく、ドキュメンタリーにしているのかもしれない、そんなことを思った。

 途中途中、中国全土の地図を映し、知り合いの住む都市の位置を説明していく場面がある。そこに「ジャン・モンチー先生は湖北省の、武漢から100KMしか離れていない場所で映画をつくっている」とか、「ウー・ウェンガン先生は雲南省の昆明にあるマンションの10階に住んでいる」とかコメントが付け加えられるのだが、その後に地図にオーバーラップされて、それぞれの姿が映し出される。彼ら彼女らは一様にカメラを携えている。エンドロールでこの映画が、ジャン・モンチーの「自画像」シリーズと同じく、「メモリー・プロジェクト」の一連の作品だと知った。だとすれば、カメラを持った彼ら彼女らは中国の各所に散らばり、このプロジェクトに参加する監督たちなのだろうか。
 父親の語る回想は激動の中国の歴史の真っ只中にいたその記憶が語られる。『ルオルオの怖れ』もまた、中国の、いや世界の中の激動の歴史にあった記憶/記録が、ある特有の方法において描かれているのではないか。

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『ルオルオの怖れ』10/12(火)14:00~配信予定