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November 3, 2021

第34回東京国際映画祭日記①

[ cinema ]

2021/10/30
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クリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』© 2021 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

◆夜勤バイト明けの朝、慣れないメトロの乗り継ぎと日比谷の駅ビルの贅沢な空間使いに狼狽混じりの興奮でクラクラしたので、少し歩いて有楽町駅近くの喫茶店に入った。わりかし高級な類の店で朝一番だったこともあり、優雅なクラシック音楽と赤地のソファを独り占めの状態で、メニューにあるエティオピアン高級ブレンドとベルギーワッフルのセットが目に留まったが、「カッコつけすぎてはいけない」という文句がどこからか導き出され、結局アメリカンコーヒーとトースト、そしてハムエッグを「よく焼き(オーバーハード)」で頼んだ。完全に調子が整い、いよいよTIFFがはじまる。
 オープニング作品であるクリント・イーストウッド監督の最新作『クライ・マッチョ』を見る。今年になってイーストウッドの魅力に気づきほぼすべての出演/監督作を見てきたので期待も大きく、またかなりの高齢であることを鑑みると、今回の作品が彼の最後の映画となるかもしれないなどと緊張する中で幕が開けた。定番の空撮から、走るトラクターを捉え、カメラが車内に移ったところでバックミラーにイーストウッドの顔が映る。おお、はじまった...(泣)。これが始まりの合図であり最後まで時間を忘れて見た。イーストウッド演じる老カウボーイが恩義を抱く牧場主の男に頼まれ、その息子を連れて帰るという筋書きだが、はっきり言ってストーリー展開はご都合主義と言ってもよく、道中、用意されたようなトラブルが発生し物語を引き伸ばしては、頃合いを見てあっさり解決されるという繰り返しだ。しかし、理屈づけを尽く放棄したが故の心地よさのようなものがあって、ラストのダンスを見ながらこれが「年老いた映画」の姿なのかなと思った。画面上のイーストウッド自身も老いていたが、それについて印象的だったのが暴れ馬の調教のシーンで、話の上では老カウボーイの健在ぶりを示して、少年に「マッチョ!」と感嘆させるのだが、もちろんそのシーンは編集によって顔が判別できないスタントによる引きとイーストウッド自身の腰から上のミドルショットで構成されている。おそらくロデオマシーンに乗って撮影したのだろうか、マシーンのつまみを「中」くらいにして。とにかくこのシーンにはこれまでイーストウッドがやってきた「自作自演」と「(身体的)老い」という主題の結実が可笑しく表れていた気がする。(安東来)


◆『運び屋』のイーストウッドが組織の末端の身でありながら達者な口と飄々とした振る舞いによってマフィアとも警察とも互角に渡り合う姿は、自分の仕事を果たすためにもはや一切の実力行使も必要としなくなったほどの彼の強さを証明しているように思えて無性に楽しかった。『クライ・マッチョ』の彼もやはり他人の「お使い」だが、外界をほとんど意のままに操作するような超能力を身につけてしまった感がある。否、超人間的な力というより、プライドや怨恨といった人間どうしの関係ではたらく無駄な心理を捨て去り、世界を生き抜くための動物的な、合理的で鋭い感覚を獲得したと言えるかもしれない。
 この映画には、軍鶏「マッチョ」をはじめ動物がしばしば登場するが、元カウボーイのイーストウッドは全部手なずけてしまい、「ドリトル先生」のようにメキシコの町の人々に慕われる。馬の鼻先とそれを撫でる彼の手は、まばゆい西日で照らし出される。また興味深かったのは、彼と少年が追手の男に捕まるシーン。丸腰ですでに年老いたイーストウッドには銃を突きつけてくる男に真っ向から立ち向かうのは難しい。すると、「マッチョ」が突然飛び出して男を瞬時に制圧してしまう。それはまるでイーストウッドの秘かな救援要請に忠実に応じたかのようだ。
彼は少年をアメリカに連れて来るためにメキシコとの国境を越えるが、イーストウッド自身は「行きっぱなし」で祖国には戻らず、かの地で出会った女性のもとに残る。映画は『マディソン郡の橋』を思い出させるイーストウッドと彼女のダンスで終わる。もちろんこのメキシコの町は彼が行くべき天国そのものなのであろう。同作で束の間の夢だったダンスは遂に永遠のものとなる。(作花素至)

【上映情報】
2022年1月14日より全国公開予定

◆所用のため宮城県に出かけていて、初日は参加できずにいた。
 夜、東京に帰ってきてから、友人の働いているバーにお土産の笹かまぼこを渡しに行き、ついでに一杯飲む。バーで同席となったわたしより10歳ほど年上の男性客から、「実は昔は映画を撮ろうとしていた」と聞く。彼は映画を離れ、今は花屋をやっているのだと言う。映画から花へ。どのようにしてその移行が彼の中で起こったのかは、聞きそびれてしまった。気がついたら、一杯のつもりが、かなり飲んでしまい、帰宅してすぐ寝床に倒れ込んだ。(鈴木史)


2021/10/31

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アンドレア・アーノルド『牛』© Kate Kirkwoo

◆朝からコンペティションの『ザ・ドーター』(マヌエル・マルティン・クエンカ)を見るつもりが、目が覚めたらひどい二日酔い。昼ごろ、なんとか落ち着いてきて、シネスイッチ銀座へ向かい、ユース TIFFティーンズの『牛』(アンドレア・アーノルド)を見る。映画は牛の出産シーンで幕を開け、キャメラは全編にわたって、おもに大きな牛と小さな牛の2頭を追い続ける。農場を舞台としたドキュメンタリーであることはわかるけど、ナレーションやテクストによる説明は一切ない。そういうと、フレデリック・ワイズマンのような映画なのかとも思われそうではあるのだけれど、キャメラはほとんどつねに牛の目の高さにあり、距離も極端に近い、時には向かってくる牛に突き飛ばされたりもする。さらに、何度かやけにメロウなポップソングが唐突に劇伴として流れる。あっけにとられているうちに、さらにあっけにとられる描写で、映画は幕を閉じる。終映後、明るくなると、NOBODY編集部の隈元さんが来ていたことに気づく。そういえば、大きな方の牛にはお尻に焼きごてか何かで「1129」という個体を識別するための数字が刻まれており、隈元さんに「1129って"イイニク"って読めますね......」と話したら、「でも、乳牛ですよね」と苦笑された。そんなこと思ってたの、わたしだけ......?
 昼食にムール貝のパスタを食べ、喫茶店で作業。その後、シネスイッチ銀座に戻り、ワールドフォーカスの『復讐は神にまかせて』(エドウィン)を見る。冒頭から向き合った2台のバイクを疾走させ、道路の真ん中に置かれた瓶をどちらが先に掴み取ることができるかという度胸試しのシーンが描かれる。芦澤明子による移動撮影やズームを含んだカットが巧みに積み重ねられていき、とても動的な印象を受けるこの度胸試しのシーンは、ニコラス・レイの『理由なき反抗』のチキンレースのシーンのようで、ある種、「力強い男性性」を誇示するゲームのようだ。けれども、主人公の青年は実のところ「性的不能」であり、愛するヒロインとの情事も、ひたすら彼女の性器を手で愛撫したりすることだけで、定型的な男女の性行為の形式を反復はしない。全編にわたって、アクション、メロドラマ、マフィア映画、レイプリベンジというジャンル映画が描き続けてきたクリシェが過剰なまでに再現されるのだけれども、主人公が「性的不能」であるということを軸にして、いままでわたしたちが見ることに慣れてきたジャンル映画からずらされていく。男女の性行為の代わりに用意されているのは、男女の格闘シーンで、ふたつの身体が絡み合い、投げ合われる様子は、セックスよりも艶かしく見えた。最終的には主人公の男が果たして主人公だったのかも曖昧になり、ヒロインと、そしてもう一人の女が後半はスクリーンを支配していく。
 終映後、外はもう暗くなっていて、わたしは急いで新宿へ直行した。夜は働いているバーを開けなければならないのだ。ひとり、またひとりとお客さんが来て、結局朝まで営業してしまった。店を閉めて外に出ると、ものすごく明るい三日月が空に見えた。駅に向かう道すがら、知らない男性にすれ違いざま、「頭の弱い女はどんなに頑張ってもダメだ!!」と怒鳴られる。みんな、ハロウィンで様子がヘンなのかな......。(鈴木史)


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エドウィン『復讐は神にまかせて』©Palari Films

◆長らく六本木中心の開催が続いた東京国際映画祭だったが、今年からは本格的に日比谷・有楽町・銀座エリアでの開催に大きく舵を切ることとなった。六本木の風情は正直これまで苦手だったけれど、今回は地に足を付けてミッドタウンやシャンテ、よみうりホール、シネスイッチなどの点在した徒歩圏内の上映会場を選んで向かうこと、そして有楽町朝日ホール、ヒューマントラストシネマ有楽町にて同日開催のフィルメックスにも足を運べることが何より大きい。街が好きな人間にとっては、街を再発見することもできる。久々の再会やすれ違いも待っているはず。そんな面持ちで会場へと向かった。
 最初に見たのは「ユース TIFFティーンズ」部門のアンドレア・アーノルド『牛』。家出少女扮するサシャ・レーンとシャイア・ラブーフ率いる若者集団との青春譚を描いた前作『アメリカン・ハニー』(2016)に惹きつけられ、これは外せないと思いシネスイッチ銀座へ。映画はイギリスの片田舎に広がる酪農場のドキュメンタリーであり、一頭の雌牛とそこから生まれた仔牛をめぐる成長、妊娠、搾乳、食事、移動といった日々の生活に焦点を当てた作品だ。冒頭からレンズが合ってないせいか、目の前に映る乳牛たちとの距離や、めまぐるしいカメラの動きや手ぶれに動揺する。そうした不安なフレーミングに慣れてきたかと思えば、今度は搾乳の時間や花火の場面にふと流れてくるビリー・アイリッシュやボーグス、メイベルなどによるヒットナンバーの選択が、言わばアーノルド印の映画であることを強く決定付ける。加えて、つぶらな雌牛の瞳を捉えてはその視線の先にある雄牛や同じ仲間を交えたカットバック。気が付くと牛たちのいる場所が、単なる酪農場ではなく、まるでパーティシーンすらではないかと錯覚するほどだ。こうしたポップでエモーショナルな瞬間を交えた編集を通じて、牛たちがまるで『アメリカン・ハニー』の若者たちのように見えなくもない。
 ただ、そうした牛たちを切り取るカメラの場所、あるいは生態の行動から作劇を生み出すための効果が、どことなく目の前の対象を搾取しているかのように見えてくる。もちろんそのほとんどが牛たちと同じ目線の高さで語られてはいるものの、それらの視線や行動に対し、言わば作劇としてのフィクショナルな側面を押しつけてしまってはいないだろうかということだ。だからカメラの位置は、つねに牛を捉える後方にあって、その中に埋まっていくものではない。こうした姿勢を画面上に感じてしまったがゆえに、牛たちへのまなざしはもっと尊むべきものでなければならない気がした。
 近くで軽くパソコン作業を終えたのち、2本目は「ワールド・フォーカス」部門にてエドウィン『復讐は神にまかせて』。本作の撮影監督が芦澤明子氏、またフィルムローダー/撮影助手として村上拓也氏が参加していることを知っていたので、以前から見たいと思っていたフィルムだ。冒頭から「グラインドハウス」を彷彿とさせるタイトルクレジット、プロット上の重要な場面で流れてくる劇伴にゾクゾクしながら、無鉄砲な生活を送る青年アジャ(マルティーノ・リオ)の猛者としての振る舞い、その一方で自身が性的不能であることに引け目を感じつつ、愛すべき人を想い続ける姿にグッと引き込まれる。結果的にアジョと相手のイトゥン(ラディア・シェリル)はたがいに想いを募らせることになるのだが、忍び寄る他者からの妨害や抑えきれない欲動とによって、ふたりは図らずも引き裂かれていく。こうしてふたりの間に生じる他者(あるいは自身)への復讐が始まるのだが、復讐とはそれが文字通りの復讐であるかぎり、報復や贖罪の呼び水に他ならない。しかし、そのことを自認しながらも、画面上によって展開されるふたりの常軌を逸したアクションの数々、あるいはそれらを支えるべくプロセスの連鎖にある種の爽快さを覚える。つまりは「それやっちゃダメだけど、もっとやれ!」と言いたくなってしまうほどに......。そうしたかつてのジャンル映画が説いた復讐の応酬に身を投じつつも、アジャやイトゥンのようにあえて果敢に挑むエドウィンの意気と類い稀な手腕を感じた。(隈元博樹)


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ダルジャン・オミルバエフ『ある詩人』©Kazakhfilm

◆TOHOシネマズシャンテが苦手だった。どうしてか、たどり着けない。「ここにシャンテがある」という場所には、いつもないのだ。心もとなさしかないなか向かう。東京ミッドタウン日比谷ができたおかげで、駅から直結でビルの中に入り、地上に出たら、中華レストランの間を入ればいい。シャンテ問題が解決して安心したところで、ダルジャン・オミルバエフ監督『ある詩人』を観る。
 19世紀の詩人マハンベトは、処刑され、遺骸は流転をたどった。現代の若い詩人ディダルは、文壇から認められずに不遇を託つ。マハンベトとディダルとの道程は、前者の場合権力への抵抗者として、かたや後者は市場の自由競争主義の犠牲者としてオーバーラップされる。権力や文明、ポップカルチャーといった世界から隔てられたところで屹立する者が詩人で、その高潔さの結果が詩なのだということが、時に喜劇的調子も交えて描かれている。
 バストショットに近い止めの画が多いせいか、漫画のコマのようだ。文化の俗っぽさと芸術の純潔さのコントラストも大変シンプルである。吃音の女性がディダルの詩を諳んじようとするくだりや、親子が眠る姿を冒頭とラストカットで対称的に映すことで映画の世界を円環として閉じている構成など、心をつかまれるショットやシークエンスはあるのだが、全体のストレートな分かりやすさが、私の好みに合わなかった。オミルバエフ監督は、世界言語の統一化で少数言語が失われていくことや、芸術が大衆から受け入れられなくなることへの危惧を可視化したようだが、描写が単なる皮肉やユーモアにとどまっている。詩人たちの肝心の詩、言葉そのものの厚みが、個人的にはスクリーンから感じ取れなかった。(荒井南)

【上映情報】
『牛』アンドレア・アーノルド
・11/07(土) 17:40ー

『復讐は神にまかせて』エドウィン
・11/04(木) 21:00ー

『ある詩人』ダルジャン・オミルバエフ
・11/5(金) 15:35ー


2021/11/1

『よだかの片想い』©島本理生/集英社©2021映画「よだかの片想い」製作委員会.jpeg
安川有果『よだかの片想い』©島本理生/集英社©2021映画「よだかの片想い」製作委員会

◆昼前に起きて、ガラ・セレクション『メモリア』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)を見るため、よみうりホールに直行。しかし、プレス席も満席とのことで、有楽町の街をお昼からひとりで散歩。COVID19の緊急事態宣言が現状解除された街には、「ビール」や「ワイン」といった看板が目に付く。でも、酔ったら寝てしまいそうなので、誘惑を跳ね除けてアイスコーヒーを飲んで時間潰し。見たかったけど、『メモリア』と時間がかぶっていたので諦めていた、アジアの未来の『よだかの片想い』(安川有果)を角川シネマ有楽町で見る。結果的にほんとうに見ることができてよかった映画になった。左の頬にあざがある主人公のアイコが、映画監督の飛坂という男と出会い、恋に落ちていく物語。ちょうど『現代思想』の「ルッキズム」特集号が出たばかりで、鞄に入れて読んでいるところだった。
 顔にあざがあることによりアイコは時に、「見られる」ことを過剰に恐れ、ありきたりの恋愛から自ら身を引いている。しかし、飛坂の求めに対してじょじょに心が動いていく。社会的規範や通念による障壁があろうとも、恋愛関係をそこに作り出そうとする姿は、過剰にメロドラマ的で、もしかしたら「別に恋なんかしなくたっていいじゃない」、「ありきたりの恋愛を真似することなんてないじゃない」と感じる人もいるかもしれないと思った。そう、それはそれでいい。しかし、時に、「ありきたりの恋愛」が自分に訪れはしないと思い込んでいる人間は、その「ありきたりの恋愛」を痛いほどに模倣したいと思う。もちろん映画は一筋縄でハッピーエンドには向かわずに、アイコは、そのまやかしの「ありきたりの恋愛」、「模倣の人生」をストレートに真似ていくことにはならない。というか、しない。
 見られることを恐れているはずのアイコだけれども、幼少期に周囲の子供たちにあざを揶揄されたことについて、でもみんながわたしに注目していることは嬉しかったとも語る。見られることを恐れながらも見られたい、見て欲しいとも思う彼女。劇中、レフ板の反射、街頭の光、そしてラストの太陽光線を映して、画面にたびたびフレアが入り込む。かつて映画界の慣例で古くは画面に映り込ませてはいけないと言われてきたフレア。それをわたしは目を細めながらなんとか見ようとした。見られることを拒否し、同時に誰よりも強く見られたいと思うアイコを見ながら、映画は幕を閉じた。長くなりそうなので、この映画はまた別の機会に何か書きたいと思った。
 この日は多くの再会する友人や初めて会う人々、わたしの好きな人たちと話すことができた。そんな人たちとお茶をして、夜も暗くなってから、角川シネマ有楽町に戻り、コンペティションの『三度目の、正直』(野原位)を見た。濱口竜介監督との共同脚本の仕事で知られている野原位の監督作は、濱口作品で顔を見た俳優陣が集まって描かれる群像劇だった。序盤、突然公園で倒れ込んでいた少年に女が声をかけ、拾う描写に、わたしたちの日常にありふれたリアリズムは無く、人物たちの発する言葉のひとつもひとつも硬質なのだけれど、それゆえ、ダイレクトに心を動かされる感じがした。この映画で「妻」の役割を担わされている二人の女性は、それぞれ別のベクトルで「あやうげ」であるけれども、最終的に、「夫」らしくあろうとして、「夫」らしき振る舞いを模倣している男たちこそがかなり「あやうげ」な存在であるかのようにわたしには見えた。そして、今年リバイバルされた『ヘカテ』(ダニエル・シュミット)のラスト、男が「今、何を考えてる?」と言い、振り返った女が「何も」とこたえるシーンのことをなんとなく思い出していた。「女は何を考えているかわからない」というまなざしから映画はさまざまな女性像を作り出してきたようにも思うけれども、実は男も、何を考えているかわからない不気味な存在だと、ラッパーである男が、その「妻」を何度も抱擁する姿を見ていて感じた。その抱擁は何百もの殴打よりも強く、彼が「妻」と思う女を傷付けてきたのだろう。
 どこかにお酒を飲みに行こうかなと思ったけど、NOBODY編集部の梅本健司さんと帰る方向が同じだったので、途中の駅まで雑談しながら帰った。ひとりだったら絶対にふらっと飲みに行ってしまっていたはずなので、助かった......。(鈴木史)


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野原位『三度目の、正直』©2021 NEOPA Inc

◆主要キャストのほとんどは『ハッピーアワー』の出演者であり、その点、物語にかかわらず見ていて愉快である(とくに謝花喜天の外見や性格には同作との間に妙な落差があって可笑しい)。改めて感じたのは彼らの顔と声がいかに深く記憶に刻まれていたかということで、『ハッピーアワー』で〈役者〉のペルソナが形づくられる瞬間を目撃したときの私の興奮は、『三度目の、正直』によってはじめてすっかり肯定され、救い出されたような気がする。彼らの姿を再びスクリーンに見出すことがかなったことは私にとっては望外のよろこびである。
 本作には、春・毅の姉弟と母/春と夫・夫の娘/春と元夫/毅・美香子の夫婦と息子/明(=生人)と父という少なくとも5つの家庭が描かれるが、安全な場所としての温かさはどこにもない。いずれも解体の気配を漂わせているか、既に一度解体を経た「残骸」であるかのどちらかである。そうした中で二度の離婚を経験することになり、子どもを産むことができなかった春は、生人との間に親子とも夫婦ともとれる「三度目の正直」の関係を取り結ぼうとする。家屋の間取りなどがほとんどわからない断片化されたショットの数々が、人々の孤独と稀薄な関係性を伝えてくれるように思われる。映画の時間内では描かれない過去に多くの重大な出来事が起こっており、そのことが登場人物たちを否応なく足踏みさせる。記憶喪失のはずの生人とて例外ではない。
 秋山恵二郎による照明が美しい。春みずからがナイフを突き立てた彼女の喉元を局所的に下方から照らし出した(むろん超自然的な)光が鮮烈であった。(作花素至)


◆何を見たらいいのか、TIFFとフィルメックスどちらに通ったらいいのか悩んで決められないまま、いつのまにか映画祭が始まってしまった。これが良かった、あれはイマイチだったとかいう知り合いのツイートを見て、「ヘー」とか言いながら、じゃあ見にいくかとスケジュールを見ると大体朝早かったり、バイトとかぶっていたりして、静かにスマホを裏返す。自分のだらしなさを少し呪う。
 ところで「自己肯定感」という言葉をたまに聞くけれど、どこか「自己責任」という言葉と通じているような気がして使いたくない。ときに何かや誰か、あるいは自分を好きになりながら嫌いになったり、憎みながら愛したりできるのとは違って、肯定と否定を両立させることなんてきっとできない。少なくとも自分に向ける言葉にしては厳しすぎるように思える。「批評を書くことは監督へのラブレターだ」なんて一見矛盾したようなことを言ってみせたジャン・ドゥーシェは、自らの人生についてこう語っている。

存在(existence)と生、人生(vie)の関係において、私は根本的に生の側にいる。存在は生のためにあり、生へと向かうべきだ。多くの人々が存在のため、存続のために人生を犠牲にしてしまっている。純粋に人生を愛するなら、驚きのみを愛するはずだ。ものごとが確立、定着することは望まない。突き詰めて言えば、時とともに、(私だけのことではなく、世界がそういうものであるのだから)宇宙全体が運動であるのだとより確信するようになった。すべてが運動なんだと。

 カメラが空から海に行き着くまでにそれぞれの登場人物を垣間見せていく冒頭からして端的に示されているように、『三度目の、正直』の登場人物たちはみな何かの狭間にいる。空でも海でも山でもない、あるいは本当でも嘘でもないところで彼女/彼らは漂っている。それはドゥーシェのように定着しようとするのを嫌っているゆえではない。登場人物たちは「誰かである」、つまりドゥーシェ言うところの「存在する」ということに執着しつつも、悉くそれに失敗していくからだ。「誰かである」に失敗することは、ひとつの関係が解消されてしまうということと同義だろう。医者であることに失敗すれば、患者との関係が切れてしまうように、親であれば子と、恋人であれば愛する人との関係が失われる。『三度目の、正直』はそうした別れの連続を描いている。だが同時にこの映画は出会いの映画でもある。ひとつの関係が解消したところで、その人が目の前から消えてなくなるわけではないし、主人公の春が言っていたように「誰かである」ことに失敗しても、人間でなくなるわけではない。合わないことはあっても、もう会わないとは限らないのだから、また人はその人と別の関係を始めていくこともできる。たとえば、春が別れたふたりの男たちと会い続けるように。登場人物たちはまた出会いと別れの狭間にいるのだ。 
 映画祭に行く楽しみのひとつは人に会えることだ。もういいよというほど会っている人、挨拶したほうがいいのか微妙な人、ちょっと避けたい人でさえ同じ場所に集まれているというのは少し嬉しい。久しぶりの人に会えるのはもっと嬉しい。ふたつの映画祭が同時に同所で開催されたおかげでその機会も期待も多くなった。日比谷は元から嫌いで、今も嫌いなままだけれど、誰かに会えるかもと思って歩いた日比谷から有楽町への道はそんなに悪くなかった。(梅本健司)

【上映情報】
『よだかの片想い』安川有果
・11/03(水) 17:50ー
・11/06(土) 10:30ー

『三度目の、正直』野原位
・11/03(水) 13:40ー
・11/06(土) 18:20ー