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November 27, 2021

『リトル・ガール』セバスチャン・リフシッツ
鈴木史

[ cinema ]

snap_000000_RVB.jpg フランス北部のセーヌ県。いかにもフランスの郊外といった風情の街並みには、古びた石造の塀と、家々を区切る無愛想な金網が目立つ。しかし、少し行けば、野原があり、草木が目に付く。そんな、ありふれたヨーロッパの田舎街に7歳になる少女が住んでいる。名前はサシャ。彼女はバレエ教室に通っている。教室の少女たちはみな一様に、青地に白い花柄などが施された華麗な衣装を着ているが、サシャだけはその身体を覆い隠すような長袖長ズボンの赤い衣装を着せられている。そしてバレエ教室の先生は、彼女に「ちょっと、僕」などと呼びかけたりする。
 サシャは出生時に男性という性別を割り当てられた。しかし、彼女は「わたしは女の子」と精神科医に明言する。母親によると、少し前までサシャは「女の子になりたい」と話していたが、いつからか「わたしは女の子」と言うようになったと言う。サシャは、2021年現在、社会的に「トランスジェンダー」と名指され、認知され始めている存在だと言うことはできる。しかし、サシャは自身のことをトランスジェンダーと呼ぶことは一度もないし、あくまで「わたしは女の子」としか言っていない。だからこそ、わたしはこの文章を、彼女がトランスジェンダーと名指される存在であることを一切無視して、あくまでひとりの少女の姿を描いたドキュメンタリーの評文として書いてしまいたい欲望にも駆られる。しかし彼女を取り巻く問題は、そう単純なことで片付けられるものではないだろう。なぜなら先述した「ちょっと、僕」という他者の呼びかけ、男性の服、男子児童として彼女を扱うことを譲らない学校の頑迷な姿勢。それらすべてが、彼女に周囲から襲いかかっているという事実があるからだ。この映画を見て、「その子がそう思ってるならそれでいいじゃない」とだけ片付けられる感性はわたしにはない。そして、そのこと自体を、7歳のサシャはすでに感じているように思われる。
 母親を交えた小児精神科医との面談では、医師から学校などで嫌なことを言われたことはないかと問われるが、サシャは口籠ってしまう。母親に「ほら、前に嫌なこと言われたって話してたじゃない」と促されるが、彼女は語ろうとしない。やがて、感情を出さない気丈な表情がついに崩れ、彼女の目から涙が溢れる。それは、外傷的な体験を思い起こす際の精神的な苦痛が彼女を襲ったことと同時に、彼女がつねに、隣にいる母親に悲しい話を聞かせたくないという慮り、すなわち他者の視線を強固に意識した振る舞いをこの社会に強制されているからだろう。医師に、「お母さんの前では話せない?」と言われ、サシャは顔を伏せて、小さく何度も頷く。7歳の少女に、まるで忍耐強い大人のような涙を流させてしまう社会を、わたしたちは生きている。
 バレエ教室で、踊りの練習をするサシャ。バレエ教室の先生は、サシャに「他人は気にせず自由に踊って」と声をかけるが、彼女は、隣で舞う他の少女の動きをたえず気にしながら、その動きに自分の動きを合わせようとする。
「他人は気にせず自由に踊って」
 そんな無茶な話はない。彼女はつねに他者に、判定され、判別され、選別されてきたのだ。彼女は自身と、外界の視線との距離をつねに測りながら、慎重に自分自身を存在させているのではないだろうか。
 監督を務めたセバスチャン・リフシッツはパンフレット収録のインタビューで、「サシャはカメラを意識していました。サシャは何も考えず行動するような子ではありません」と語っている。リフシッツが、サシャが部屋で遊んでいる姿を撮ろうと、彼女の部屋にキャメラを持ち込んだときには、「遊ばない。普段は遊ぶときは1人だから」と断られたこともあったと言う。
 本作には、街路の奥から歩いてくるサシャと母親を、固定キャメラで捉えた画面などをはじめとして、サシャやその親族との打ち合わせがない状態ではとても撮ることができなさそうなカットが散見される。しかし、それらは、「撮らせているのはわたしだ」というサシャと、「撮れないものは撮らない」というリフシッツの姿勢あっての、ある種の共同作業によって出来あがったシーンと理解するべきなのだろう。
 サシャは今後、どのように生きていくのだろう。彼女はたえず、他者からまなざされている。この映画を見るわたしたち観客も、彼女をまなざし、そして議論する。しかし、忘れてはいけないのは、わたしたちがサシャを「見る」ことができるのは、サシャがわたしたちにその姿を「見せてあげている」からなのだ。観客があたたかく、やさしい視線でサシャをまなざすとき、つねにサシャとその親類たちも、あなたがたを見つめ返している。

 最後に、ごく近しい女性の感想を、彼女の許可を得た上で記す。彼女も出生時には男性という性別を割り当てられたが、現在は女性として生活している。彼女は、先述したサシャの大人びた涙に、自身の幼少期の似姿を見たと言う。しかし、彼女は、幼い頃、サシャのように「わたしは女の子」と言うことはできなかった。彼女は幼稚園の頃に、『有言実行三姉妹シュシュトリアン』という女児向けの特撮番組が好きで、登場人物の少女たちに憧れていたが、そのとき、強烈に「シュシュトリアンになりたいなどとは間違っても口走ってはいけない」という感覚に襲われた。彼女は、サシャのようには生きられなかったと言う。それは、そうすることにより巻き起こる周囲の反応や事態を恐れたからだ。
 リフシッツは、割り当てられた性別への違和は思春期に現れるものと思っていたところ、そうではない例もあるという関心から、このドキュメンタリーの制作を始めたと言うが、彼女の例も、やはりそうした「性別違和は思春期に現れる」という理解とは別の経験である(また別に、成人してから違和を呈するケースもあるそうだ)。
 彼女は映画を見ることにのめり込み、暗い劇場に息を潜めることで、現実の生活から離れ、心を和らげる術を学んだそうだ。しかし、彼女は「スクリーンでサシャが踊ってる姿を見ると、わたしもそうできる気が少しだけした」と思ったという。

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