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December 28, 2021

『愛すべき夫妻の秘密』アーロン・ソーキン
松田春樹

[ cinema ]

 カメラがゆっくりとラジオに近づいていく。「ウォルター・ウィンチェル・ショー! 提供は時計のグリュエン 」ラジオ番組の開始を聴くソファに寝そべる女性(膝だけが見えている)。そこへ男が帰ってくる。「ルーシー!ただいま!(Lucy, Iʼm home!)」男女の顔は見えず、カメラは依然としてラジオを大きく映し出しているものの、マイクがラジオの音声に比して二人の会話を大きく拾い始める。「どこをほっつき歩いてたのよ!」。夫婦と思われる二人の痴話喧嘩が始まる。二人の足元や鏡に反射した雑誌がわずかに見える。ゴシップ誌に載った夫の浮気が原因であるらしい。が、しかしあっさりと夫の弁解を受け入れた妻は夫をソファへ招き入れる。仲直りしてすぐにセックスを始めようとする二人。手前側に映る二人の影が先にも増して大きく見え始める。すると再びラジオの音声が大きくなり、「国民的女性テレビスターに共産党員の疑いが浮上 」。ここでようやくカメラはこの報道に驚いた二人の顔、身体を正面から捉えることになる。この一見なんでもない映画の始まりにおいて、双方から聴こえてくる音が常に入れ替わっていることに気づきたい。ラジオが大写しになっている時には夫婦の会話が大きく聞こえ、二人のシルエットが大きく見え始めると共にラジオの声が大きくなる、といった具合に。ラジオと夫婦の関係においてその音声だけが見事に「交換」されており、それはこの映画の大きなテーマとなっている。
 やがて二人が出演するテレビドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』の読み合わせの場においても、音声の「交換」は見て取れるだろう。複数のスタッフや俳優は次々と脚本に書かれた言葉をその場で読み上げていく。ただしそれは、台詞やト書きであって、彼ら自身の言葉ではない。彼ら一人ひとりの声に代わってまず脚本があるように。その結果スタッフ全員にとっての声が、ここでは交換可能なものとして逆説的に一つの共通言語を作り出していると言える。しかしここで積極的にその共通言語に違和感を覚えているのが、上述した妻のルシル・ボール(ニコール・キッドマン)である。台本冒頭のシーンにおける夫妻のやりとりがどうしても気に入らないのだという。夫が妻に目隠しをしながら帰ってくるという場面で「この家の広さなら夫の帰りに気づくはず」、「キューバ訛りの夫の声がわからない?」とシーンにおける徹底したリアリティを求めるのである。しかしこの場において彼女がやや孤立しているように思えるのは、その声を交換可能とさせることこそがチームにとっての重要なコンセンサスであり、ドラマ制作の便宜上必要な要素なのである。
 声の交換可能性が便宜上必要であることは、彼女自身が理解をしていないはずがない。夫の不貞を咎めるときに彼女がいつも用いるのは、自身の言葉ではなく、タブロイド紙からの引用である。また、同僚のヴィヴィアン(ニーナ・アリアンダ)に対してはわざわざ脚本家のマデリン(アリア・ショウカット)に朝食を運ばせ、皮肉を告げる。その他の人物においても同様のことが言え、それは夫のデジ(ハビエル・バルデム)にとっての歌であり、ビル(J・Kシモンズ)にとっての酒である。それこそルシルの共産主義問題を面と向かって指摘するものは誰一人おらず、それは常にメディアを盾にして彼女に伝えられる。つまり音声を交換するとは、自らの声を封じ、便宜的に別の声を扱うことなのである。
 そうなると、ドラマ制作におけるルシルの徹底した声の「保持」はどうなるだろう。カメラテストや通し稽古の段階になってもまだルシルは脚本が気に入らず、自らの中に声を求めているようだ。また、彼女が実際に妊娠した際にも、彼女はドラマの中に現実の要素(妊娠)を入れ込もうとする。だがそれは、1950年代当時のヘイズコードに引っかかるものであり、チームとしては当然それらの面倒な要素を便宜的な脚本で交換しようとするのである。
 ルシル夫妻が歩んできた道のりの中で、デジと出会ったばかりの頃の印象的なシーンがある。デジがルシルに「夢は何だ」と尋ねると、彼女はただ「家庭」と答える場面だ。しかしやがて明らかにされるのは、現実のルシル夫妻がドラマ上のリカード夫妻とは全く別の道を歩んでいるということだった。そこにはリカード夫妻のようなアメリカの良き家庭の面影はなく、デジは殆ど家に帰っていないという冷めきった関係として語られる。そう、彼女は現実の「家庭」を持ちえなかった代わりに、ドラマを作る過程にそれを見出したのである。ドラマの中で「Being the Ricardos」(リカード夫妻でいること)である時にこそ、彼女の「家庭」があったのだ。舞台上においてルシルが声を「交換」しようとしないのはそのためである。それは便宜上のものであってはならず、自らの声を伝える場所でなくてはならなかった。しかし、舞台上のフレームに映し出されるのは、作り物であるかぎりいつかは消えてしまうものだ。どれだけ彼女がフレームの内部に情熱を注いだとしても、結局それは虚像でしかあり得ないのである。
 いよいよルシルの共産主義問題が明らかになろうとしている舞台袖のスタッフたちは、自らの言葉で互いを励まし合う。驚くほど淡泊に示される疑惑の結末がさして重要ではないことは誰の目にも明らかだ。最も重要なのはルシルが彼らと同じようにして、デジの不貞を明らかにしたこと。つまり彼らがフレームの外で自らの声で語り始める時、もはや誰もフレームの内側で真実を語ることを必要としないのである。

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