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January 16, 2022

『決戦は日曜日』坂下雄一郎
鈴木並木

[ cinema ]

640.jpeg なにか調べ物をしていて、いまでは傑作とされている古典が発表当時はたいして評価されていなかった、と知ることがある。昔の人は見る目がなかったんだなあとか、当時はこんなものが高く評価されていたのか、などと驚きながら、そんなとき、自分もそのうち「昔の人」になることも、いま生きている現在が歴史上の任意の「当時」になりうることも、たいてい都合よく忘れている。たまには少し頭を働かせて、今日見た映画が未来の名画座で作家主義的に再発見されるところを想像してみたい(そんなものがいつまでも残っているとすれば、だけど)。
 たとえば2070年に品川セレクトシアター(いまはまだ存在していない)で開かれた特集「2020年代娯楽映画の発掘」のチラシでは、坂下雄一郎はこんなふうに紹介されている(かもしれない)――

東京芸術大学大学院の修了作品『神奈川芸術大学映像学科研究室』(2013)で注目され、『東京ウィンドオーケストラ』(2017)、『ピンカートンに会いにいく』(2018)など、自身のオリジナル脚本によるコメディ作品を発表し続ける。地方都市での選挙戦をモティーフに、一貫したテーマである集団でのものづくりを描いた『決戦は日曜日』(2022)では、宮沢りえの喜劇役者としての資質を引き出した。

 話を現在に戻そう。病に倒れた父親の身代わりに候補者として担ぎ出された宮沢りえと、彼女の秘書役の窪田正孝を中心に据えた『決戦は日曜日』は、いかにも日本映画らしい政治映画、いや、選挙映画だ。ここでの「日本映画らしい」は、「アメリカ映画とは違う」くらいの意味にとっていただければよい。つまり、政治的立場を明確に主張するかわりに「まあ現実はこんなもんですから」とボヤいてみせ、マフィアではなく後援会の老人たちが発言力を持ち、ピストルではなくまとめサイトのデマによって攻撃がおこなわれる。なんとも地味な世界。
 そうした世界をソツなく、観客に違和感を与えずに成り立たせるために、映画はまず、宮沢りえ扮する候補者に焦点をあてていく。コントと現実の境界線を綱渡りするようなキャラクターやセリフを日常に放り込んでなじませてしまうのは、坂下監督が得意とするところだ。本作にも、わたしたちがここ数年の間に現実世界で見聞きした気がする政治家たちのトホホな振る舞いを元ネタにしたあれこれが、ふんだんに織り込まれている。そして、脇の甘い言動で周囲を振り回す素っ頓狂な宮沢りえが、とにかく素晴らしい。見飽きない。
 で、選挙の素人がプロと触れてどう変化していくのかを見せるのが常道であるところ、彼女はたいして変化しない。ブレない。そのブレなさを通してしだいにくっきりと浮き上がってくるのは、プロや支援者たちにとっての当たり前がいかに異常であるか、だ。自分の信念とかけ離れた現状をなんとかしようと苦闘する宮沢に対して、それを思いとどまらせるために窪田が返す、事なかれ主義的で実務的な言葉。諷刺には切れ味鋭かったり、棍棒でぶん殴ったりするものだけでなく、濡れ雑巾のように不気味なものもあるのだ、と体が震える。
 もちろん最後にはある変化が訪れて、映画は終わる。それがあまりにも穏やか過ぎて物足りない、との意見はあるだろう。これではまだ、なにも始まっていないじゃないか、と。ただ、映画も言葉も政治も、そうそう簡単にそれを使う人間の身の丈を超えられはしないはずなのだ。だとすれば。
 とはいえ、たとえばいまならば、大島新監督の選挙映画『香川1区』とこの映画をはしごしたりもできる。未来人には願ってもかなわない、現代を生きるわたしたちだけの楽しみとして。そして希望として。

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