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March 8, 2022

『弟とアンドロイドと僕』阪本順治
山田剛志

[ cinema ]

 印象的ではあるが、記憶に定着しづらいタイトルである。もしこれが「僕と弟とアンドロイド」というタイトルだったら、一人称である「僕」を基点とする安定した構図が形成され、スムーズに記憶できるのではないだろうか。「弟」と「アンドロイド」の後ろに、「僕」が並列するタイトルの"座りの悪さ"。それは、本作が問題とする「孤独の性質」と深く関わっている。
 「"究極の孤独"を描いた禁断の問題作」という触れ込みから、人付き合いの苦手な科学者が、孤独を癒すために"友達ロボット"を自作する話なのかと思って観たら、全然違った。
 主人公の科学者・桐生薫(豊川悦司)が、ぎこちない足取りで暗い廊下を直進する姿をスローモーションで捉えたファーストカットは、彼の抱えている「問題」が「人付き合い=対人関係」の水準にあるのではなく、もっぱら精神と身体の結びつき、「自己との関係」にあることを鮮烈に予感させる。
 物語が進展するにつれ、薫の右脚が発作によってコントロール不能に陥ること、先天性のものであり、医学的に極めて珍しい病態であることが明らかになる。言うなれば、薫にとって彼の右脚は意思の通じない他者である。もし筆者が同じ境遇にある場合、どうするだろうか。右脚を切断して補助具に頼るか、病態と粘り強く付き合って治療に望みをかけるか、そのいずれかを選択するだろう。しかし、薫は右脚を排除しないし、治療によって馴致しようともしない。
 薫の「問題」とは、自身の身体に内在する「他者=右脚」によって、精神と身体の結びつきが解かれてしまっていること、「私の身体は私のものである」という自明性の喪失にある。右脚の発作はそうした自明性を剥奪する契機としてのみ意味を持ち、もし仮に治療に成功して発作が起こらなくなったとしても、薫の精神と身体の間に穿たれた亀裂は決して埋まらないだろう。
 薫が鏡に映った自身の顔に不可解な視線を向け、輪郭を指でなぞるショットが印象的である。「僕は、いますか?」というセリフが唐突に呟かれる。これらのアクションもやはり、心身のズレが関係している。他者が認識するのは、薫にとっての他者である彼の身体であり、本田博太郎演じる大学学長や「弟」である安藤政信から、「気持ち悪い」だの「変人」だのと評されたところで、彼の心には響かない。本作のキャッチコピーである"究極の孤独"とは、上記の事態において立ち現れるのだ。
 では、この地平において「アンドロイド」とは、一体何だろうか。それは友達だろうか。確かに、完成したアンドロイドは傍らで眠る薫に毛布をかけてくれるし、床に落ちたコップを拾ってくれる。しかし、自己との関係に起因する薫の孤独は、友達の存在によっては、解決されないだろう。「僕は、いますか?」という問いで示される「僕」と、他者が認識する「僕」が一致しないかぎりは。筆者の見立てでは、薫がアンドロイドに託す役割は、驚くべきものである。彼はどうやら、自作した「アンドロイド」に「僕」を移し替えようとしているのだ。
 アンドロイドが完成して以降、薫の動作には明らかな変化が見られる。缶を握り潰すアンドロイドの手の動きを模倣するなど、アンドロイドの身体に「僕」の感覚を馴染ませるような挙動を繰り返すのだ。それはまるで、スペースシャトルの乗組員が、宇宙空間での生活に備えて、仮設された無重力空間で予行練習に励んでいる姿を彷彿とさせる。
 心身の分裂を補正するのではなく、大胆にも加速させて切り離し、精神を別の身体に脱出させること。薫にはこうしたSF的な発想を裏打ちする能力がある。それは、就寝中の他者を自身の内面世界に引きずり込む、というものだ。この能力は誰に対して行使されるのか。また、薫の脱出劇は果たして成功するのか。問いは開いたままにしておこう。差し当たり言えるのは、本作における「アンドロイド」が、『一度も撃ってません』の佐藤浩一が見上げた先にあり、『団地』に降り立って、登場人物を彼方へ連れ去った、「宇宙船」の系譜に連なる形象であるということだ。


全国公開中

『団地』阪本順治 田中竜輔

『行きずりの街』阪本順治 梅本洋一

『魂萌え!』 阪本順治 槻舘南菜子