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April 2, 2022

『ポゼッサー』ブランドン・クローネンバーグ
作花素至

[ cinema ]

3F2A95DC-D691-4862-BE26-C8220FC1AE7F.jpeg 映画は、ある女性の地肌の見える後頭部のショットで始まり、続くショットではコードに繋がれた針が突き刺さるその頭皮が超クロースアップで痛々しくとらえられる。皮膚に対する強い執着が伝わってくる。「私」の外部と内部とを隔てる皮膚は、ふつう、固有の「私」と分かちがたく結びついているはずだ。ところがこの映画では、(たとえ比喩的なイメージだったとしても)「私」から剥離していく皮膚の居心地の悪さばかりが際立つ。
 主人公タシャ・ヴォス(アンドレア・ライズボロー)は某企業の暗殺者であり、完全犯罪のために他人の身体に憑依し、人格を乗っ取るというシステムを利用する(冒頭の女性もタシャに操られていた)。これが「私」ではない身体=皮膚に通じる道を開く。憑依のプロセスは、悲鳴を上げるタシャと憑依対象者らしき人物の顔が激しくフラッシュしてオーヴァーラップするなか、彼女の身体の表面が急速に溶けて崩れていき、対象者の姿に再形成されるという超現実主義的イメージで表現されている。皮膚は、いかようにも変形する無個性なつくりものなのだ。また、トラブルでコリン・テイトという男性(クリストファー・アボット)の身体から脱出できなくなったタシャは、コリンが逆に彼女の身体を乗っ取るという幻影に襲われるのだが、それは彼が彼女の頭を空気の抜けたボールのように潰し、その皮を奪って被るというものだった。皮膚は中身のないただの皮に還元されてしまうのである。
 しかしながら、ここで一つの疑問が生じる。他人の身体=皮膚を乗っ取るという場合、当然、乗っ取る主体(すなわち「私」)があることが想定されるわけだが、この映画において「私」はいったい何処に存在したのだろうか。確かに、宿主の身体の中のタシャは、会社の施設に残った彼女自身の身体を通じて上司とコミュニケーションがとれるという設定であり、そのとき、二つの身体を跨ぐことができる意識や自我のようなものがあったと推測することはできる。さらに、タシャの人格が不意に復活したコリンの人格との間で彼の身体のコントロールを争うはめになるという事態も、「私」の存在を裏付けているように思われる。
 とはいえ、それらは消極的な根拠に過ぎない。「私」の実在は確かめることができないのである。憑依のプロセスを思い出してみても、溶けて作り変えられる皮膚の内側は空洞であった。人間たちは、最初から「私」という中身を欠いた皮だけの生き物だったのではないか。あるいは少なくとも「私」よりも外側の皮のほうが主人で、勝手に動き回っていたと考えることはできないだろうか。しばしば鏡を覗き込んで自分がまとう「他人の顔」を観察するタシャは、生きている仮面のような存在にも見えるのだ。
 最後に、タシャがコリンと、彼女にとって大切なはずの一人の人物(実は彼もまた別の暗殺者に乗っ取られていた)とを犠牲にして元の身体=皮膚を回復したとき、二人の死者が横たわる血だまりが蝶の形を模していたことに触れたい。それは幼少期の彼女が自作したという赤い蝶の標本に結び付く。タシャにとってその蝶は彼女が最初に殺した生命であり、「罪悪感」の象徴でもあるのだが、加えて、標本とはその生命が亡くなった後も表皮だけが朽ちることなく生き永らえているものであるという事実が気にかかる。すべては一頭の蝶の呪いだったのだろうか。