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April 3, 2022

監督・青山真治 追悼特集 第一回

[ cinema ]

3月21日に亡くなられた青山真治監督に哀悼の意をこめて、青山監督とNobodyの過去20年近くに渡る歴史を、寄せられた追悼文とともに全4回に渡って振り返ります。


教えてくれた人

 知らせを受けたばかりで、こうして書いています。青山真治の訃報。彼は私たちの世代でもっとも生き生きした監督でした。

もう何年も前のある夜のこと、東京で『ユリイカ』と『エスター・カーン めざめの時』が併映され、それを見終えた日本の観客たちの前で真治に初めて会いました。『ユリイカ』の素晴らしさに打ちひしがれて、彼が友情をもって差し出してくれた手を握る勇気がありませんでした。

あぁ、あの新聞紙で覆われたバスの窓、兄妹を照らす崇高な光、卒倒しそうなほど美しいモノクロ。真治は私より歳が下だったけれど、すでにたくさんの映画を撮っていました。それに比べて私はやっと4本目を撮ったばかりでした。どちらが先輩で後輩なのか。それが私たちの友情の中心である神秘と言えるかもしれません。

そう、でもそれ以上に、私はひとりのブラザーに出会ったと思ったのです。映画の兄貴。私の映画から落穂拾いをするように拾い集めた美点を、たくさん教えてくれた真治と、私は兄弟のようになりたいと思ったのです!

おどおどして東京を訪れた私に、真治は私たちの芸術、映画の崇高さを見せてくれました。

私は誇りを胸に、帰りの飛行機に乗りました。それが青山真治から受けた最初の教えでした。

私がなぜ、そしてどのようにこの男、このアーティストを愛したのか、理解するのには何年もかかりました。

青山真治は、美しさを無我夢中に探求した映画作家でした。放浪者のような気軽さで、彼はそれをどこにでも見つけていました。カメラの前で生まれる美を。彼の映画がそのことを証明しています。いつも笑顔だけれどいつも真剣だった真治は、美に酔いしれていました。もっとも野心的な大作から慎ましい規模の作品まで、青山真治のどの映画も、この飽くなき美への渇望にぶるぶると震えて見えます。そして、映画における美しさへの真治の愛を、彼と分かち合いたいとどれだけ思ってきたことか。

そして今夜は、真治と語り合うことが一度もなかったタルコフスキーのことを考えています。

真治は人生において、ワイルドで優しい男でした。つまり真治は人生の荒々しさを優しさをもって愛していたのです。それも彼の映画を見ればわかることです。私はあまりにも分別がありすぎ、真治は何も恐れていませんでした。

10年経った今でもはっきりと覚えている出来事があります。真夜中、東京でカラオケに行き、真治からいきなりマイクを渡され、なんとかボブ・ディランのひどい物真似をやることに。でもどの曲だったのか。私が歌詞を覚えている「Like A Rolling Stone」だったでしょうか。人生で最初に行ったカラオケだったのです!私は飲みすぎていたし、西洋人的過ぎたし、人前で歌い慣れていませんでした。ブレーズ・サンドラールが言うように「そして僕はすでにあまりにもヘタな詩人だったので/最後までやりとげることができなかった」のです。真治はもう一本のマイクを握り、楽しく、激しく、自信に満ちた声で私に寄り添ってくれました。私を支えてくれたのです。

真治は恐れを知らず、夜は彼の手の中にあり、まるで王子のようでした。真治は映画においてそうであるように、人生においても詩人でした。真治は最後までやり通す術を知っていたのです。だからこそ、青山真治は私にとって師のような存在なのです。
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『ユリイカ』、あるいは『月の砂漠』の壮麗さ、あの妙なる繊細さを持ち、澄み渡った『空に住む』、世界に溢れる輝きを恐れることなく撮り、見せればいいのだと青山真治は私たちに教えてくれました。

美しさに酔っ払って....

そう、ささやかながら、私は彼の弟でした。
あなたたちとともに、今日、私は真治の死を悲しみ、追悼します。

3月25日

アルノー・デプレシャン

訳:梅本健司

─『空に住む』─ Notes for Astronauts 


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結城秀勇

(2020年10月31日発行「NOBODY issue48」所収、P25-27)




危険な場所で

 まるで宇宙服のヘルメットのような、半球状の窓のついたバックパックを背負って、直実(多部未華子)はタワーマンションのエントランスにやってくる。監視カメラのような角度で斜め後方から撮られた彼女を認識する最初の要素は、顔でも服でも髪型でも背丈でもなく、まずこのカバンの形状だろう。
 「ハル、水だよー、すごいねー」と、エントランス脇の水を張ったオープンスペースに向けて、直実はあたかもおんぶした子供になにかを見せるような仕草をする。この特徴的なカバンは、彼女の愛猫・ハルを入れて持ち運ぶためのキャリーバッグだったのである。その後に室内に入り、猫を取り出す場面を見れば、カバンの前面下部や側面には大きなハトメ鋲で通気口がいくつも空いていて、通気性通熱性に配慮されたつくりになっていることに気づく。機密性によって内部の人間を外部の環境から守ろうとする宇宙服とは正反対に。
 しかしそれでも、このカバンはやはりどこか宇宙服のように年老いた黒猫を守っていたのだ、という印象が、映画を見ている間、消えてなくならない。住み慣れた環境を後にしてきたとか、新しい環境に慣れることができないとか、豪華すぎて気後れするといったレベルではなく、しかるべき防護を得なければ生命の維持もままならないような過酷な場所に、この映画の最初のカットからすでに、直実と愛猫はふたりきりでいた。遠くに見えるまばらな光のほかには、重力も大気も熱もすべてが深い闇の底に沈んでいってしまうような、そんな場所に。

高さと低さ

 事故で両親を失った直実は、叔父(鶴見辰吾)の所有する、渋谷のタワーマンションの39階の部屋に越してきた。彼女を出迎えた叔父とその妻・明日子(美村里江)は、たったひとりでふたりの親の一連の葬儀を四十九日まで務めた姪をねぎらい、兄夫婦の位牌を仏壇がわりにと窓辺にしつらえた棚の上に置く。そして言う、「アニキ、義姉さん、これが東京ですよ」と。
 高層マンションの窓から見下ろす風景は、たしかに絶景だ。でも「ああ、これが東京か!」とは思わない。もちろん「これは東京ではない」とも思わないし、疑いなく東京なのであるけれど、もしかすると「これが東京か!」と思うのかもしれないなにかが、あまりに遠くにありすぎてあまりに小さすぎるので、それを強く実感するにはとりとめがなすぎる景色に見えるとでもいうか。それは単に地域や方角を同定するためのランドマークを欠いているからというわけでもなく、実際、後にこの部屋を訪れる直実の後輩は一瞬で「あれが新宿だ!」と指差していたのだ。
 その「あ......うん、言われればそうか」という、なにかがしっくりこないようだが、しかし決して耐えがたい食い違いというのでもない、どうにも微妙な感じは、直実の高層マンション暮らしの基調となる。底抜けに明るい、というよりもむしろどこまでも軽い、叔父夫婦のお気楽なテンションは、しばしば難しい顔をして考え込む直実の上をフワフワと漂っているようで、やたらと大きくふくらんで口の狭まったグラスで飲むワインや、「ここ土足だから」の一言で片付けられてしまうライフスタイルとともに、直実の生活の一部になる。この高層マンションライフの奇妙さは、直実の職場である「書肆狐林」の景色との対照性によってより際立つ。渋谷から、電車で川を渡ってたどり着くその「田舎の」出版社は、一見ただの日本家屋で、もちろん玄関で靴を脱ぐばかりか、縁側に縁取られた開放感ある一間の畳にみな直接座り(座椅子はある)、庭を隔てた離れの「自習室」では布団を敷いて地面に横たわりすらする。家の中でも靴を履かなきゃいけないマンション暮らしよりはよっぽど過ごしやすそうで、おまけに近所にはうまい蕎麦屋もあるらしい。
 その畳敷きの編集室で、まるで大黒柱に一番近い一家の主的ポジションのような場所にでーんと座っているのが直実の後輩の愛子(岸井ゆきの)で、彼女らが「自習室」の編集長に呼ばれていく場面でハッキリと、愛子のお腹が妊娠のために大きく膨らんでいることがわかる。お腹のせいでどこかふんぞり返ったような姿勢も、時折放たれる乱暴な断言(「元が誰のでもいいんですよ。いま自分のものなら」)も、彼女がこの空間にいることを激しく主張していて、この気のおけない職場には彼女の重力が常に働いているという気がする(そしていつも一番遅く出勤してくる)。ある意味で、直実がハルを背中に背負っていたのとは反対に、彼女は自らの子をお腹に抱えて、より攻撃的に外部の環境から守ろうとしていると言えるのかもしれない。そして彼女のお腹も、バックパックの窓と同じ半球状をしている。
 芸能人も暮らす渋谷の高層マンションでの(靴を履いたままの)人も羨む生活と、「田舎の」小さな出版社のみな車座になって和気藹々とした職場とどちらがいいのか、という二択であればなにも迷うことはない。高さか低さか、孤高か平俗か。だが『空に住む』の冒頭において真に重要なのは、直実は別に選択の結果として自らの住まいを受け入れているわけではないということだ。

どっちなんだよ

 人は生活の大半をそこで過ごす住まいを選ぶことによって、いわゆる自らのライフスタイルを形成するのだろうが、前述の通り、直実は「渋谷の高層マンションの暮らし」がいいからだとか、自分に合っているからだとか、人が羨むだろうとかの理由で、そこを住まいに決めたわけではない。たまたま、それが叔父の所有物だったからだ。ただ、だからといって、直実が本来住みたいと思う部屋とこの部屋が著しく乖離している、という描写があるわけでもない。「こんなところに住まわせてもらうなら、いくらかお金を払わなきゃ」という彼女の気後れ程度に、観客もまた彼女とこの部屋のそぐわなさをうっすらと感じるのだが、では彼女が自らの住まいとして選びたい空間とはどんな場所なのかという問いに、はっきりとした答えを出せるほど彼女のことがわかるわけでもない。
 同じことは、マンションのエレベーターの中で偶然出会う有名俳優・時戸森則(岩田剛典)にも言えるのだ。慌てて乗り込んだエレベーターが下りではなく上りだったことを指摘され、下まで付き合うよ、と密室で短い時間を過ごすことになる彼との出会いの、あの足元とエレベーターのボタンを操作する手元との短いカットのつなぎの間、直実は彼のなにを見てなにを感じとったのだろうか。少なくとも目と目が合って恋に落ちた、などという感じではなくて、たとえばあの高層の部屋の窓から見える東京の眺めのように、そう言われればそんなこともあるのか程度のことくらいに思う。
 「文学」を扱う小さな出版社に勤める直実と、マスコミを賑わす有名人の時戸。しかし彼らの関係は、シンデレラストーリーのようにも、所詮叶わぬ恋といったようにも、進まない。そもそもそれは、恋とか呼ぶようなものなのだろうか。直実がこの部屋に住む理由と同じように、たまたま住むことになった高級マンションで、たまたま有名人に出会って、たまたま部屋に来て、たまたまそういう関係になった、それだけなのではないか。にもかかわらず、時戸は直実に「君に選ぶ権利がある」のだと言う。「人生の岐路か」と呟いた彼女は時戸との関係を続けることを「選ぶ」わけだが、彼女はいったいどんな選択肢の中からそれを選んだのだろう?
 時戸と出会った後で、直実は職場の仲間たちに「時戸森則をどう思うか」と聞く。セクシー、売れっ子、演技がうまい、などと俳優としての彼のイメージが挙げられていく中、愛子は、彼の大ファンである自分の友人によると、彼の良さは外見ではなく内面で、いわゆる好青年なところなのだ、と言う。
 「あ、そんな気がする」と思わず答えた直実に、愛子はしれっと「だまされてますねー、たぶんやばいですよあの男」と返すのだが、そう言われた後の直実の呟きは、この映画全体を象徴するかのような一言だ。
「どっちなんだよ?」

Wild eyed girl from Freecloud

S__33144834.jpg 高いか低いか、善人か悪人か、夢か現実か、天国か地獄か。『空に住む』にはいくつもの二択が存在するのだが、そのどれひとつとして、どちらが正解だったのかが明らかにされるものはない。「二項対立は陳腐」だと時戸は言う。愛子や明日子が心配した通り、時戸が「やばい」やつだとわかっていったとしても、決して直実が「信じたのに騙された」ようには見えないところがこの映画の不思議なところで、たぶんはじめから直実は時戸のことを、そうある通りにしか見てはいなかったのだ。部屋の窓から見える景色はステータスでもなんでもないただの景色に過ぎないように、また、その中に見える時戸の顔が大きく写された看板広告も、「ここにいるあなたが生きているのと同じくらいには、あれも生きている」と言っていたように。
 おそらく、まるで「地球に落ちてきた男」といった非現実性を伴って、時戸が直実の人生に現れなければならなかった最大の理由は、彼の「哲学」のためだったのだろう。成功を収め、望むものはなんでも手に入れ、特に「後悔もせず、のほほんと」生きているはずの彼がふと呟く、「人生は地獄だ」という認識のため。いいことがあろうが悪いことがあろうが、関係は決して終わることなく死ぬまで続く、その耐えられない長さこそが地獄なのだと彼は語る。最高も最悪も、高いも低いも、好青年でも最低な人間でも、すべてが等しく地獄。
 そして地獄を生きるのは時戸ただひとりではなく、直実も愛子も、叔父夫婦も、愛子を孕ませた作家(大森南朋)も、出版社の同僚たちも含めたこの映画の全員だ。選択の良し悪しではない、なにを選んだとしても付き纏う時間の長さそれ自体からは、高きに住む者も低きに住む者も逃れられない。だからこそ、直実はハルの最期を看取るときに、土足で歩いているはずの床に猫と並んで寝転ぶのだ。だからこそ、なにより家族を求めているはずの愛子は家族となる者に嘘を押し通し、出産の場としてあの居心地よさそうな職場ではなく、高く孤独な直実の部屋を目指そうとするのだ。だからこそ、ハルの亡骸を火葬してくれた男は、夜空に浮かぶ星までの、途方もない距離と時間について語るのだ。
 本誌収録のインタビューで語られている通り、直実はこの物語の最後に、自らの選択の結果ではないあの部屋で、しっかりと地に足をつけて立つ。ハルはもうあの半球状の窓の中にはいないし、愛子の娘もあの半球状のお腹から外に出てきた。彼らを守っていた宇宙服のようなものたちは役目を終えてしまったが、それは彼らを囲む環境が住みよいものになったことを意味するわけではないだろう。空だろうが宇宙だろうが地獄だろうが、彼らの住む環境はあのファーストカットの過酷さからなにも変わってはいない。

にもかかわらず、こんなにも清々しいのは、ただ彼らが「まさに無敵」だからなのだ。

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■これは自分が考えたことじゃなくて(斉藤)陽一郎が映画を見終わったあとに電話で感想を伝えてくれたことなんですけど、「あの場面で直美は地に足をつけてるわけですよね」って言われて、最初は「はあ?」って感じだったんです。だけど「いや、時戸が言うじゃないですか、地に足付けたいって。それを直美は実現しているわけですよね」って。それで「ほお」と。「高層マンションの階に住んでいても、地に足を付くんだってことなんですよ」って言われて「あっそうなんですか!」と自分も驚きつつ、斉藤さんをちょっと見直した感じがありました。「良いこと言うなあ、お前!そういうことだよ!」っていうね(笑)。(同号、青山真治インタビュー「地に足をつけて立つ」より)


『空に住む』

隈元博樹

907AFDE2-9A15-4EB9-95F9-B2091A7D9B54.jpeg 高層マンションのエントランスを捉えた監視カメラの映像に、小早川直実(多部未華子)が映り込む。彼女が背負う特殊な形をしたリュックの中には、ハルという飼い猫も潜んでいるようだ。両親と死別したことをきっかけに、直実は叔父夫婦の計らいでこのマンションに越してきたことがのちにわかるのだが、唐突とも言える冒頭のショットによって『空に住む』は始まる。「空に住む」かのごとく39階の広々とした新居はどこか単身+ペットにしては身に余るほどの空間であり、窓外は一面に広がる東京の景色。高層という地面から浮遊したような場所であることからも、直実やハルと同じようにして身の置きどころを掴めないまま、私たちはここから動き始める物語を見つめていくことになる。
 そうした住まいがある一方、直実は勤務先の出版社「書肆狐林」との往来を繰り返す。東急線の多摩川を越えた先にある彼女の職場は、リノベーションされた日本家屋の佇まいであり、編集者たちのデスクはいずれも畳の上に座椅子を囲んだレイアウトを呈している。出版社には自習室と呼ばれる離れも設えられていたりと、まるで直実が住む高層マンションとの対比を際立たせるようなつくりだ。また直実は両親の供養を終えて職場に復帰したばかりであるものの、空いたブランクを必死に埋めるかのようにして仕事に打ち込もうとする。編集長の柏木(髙橋洋)や後輩編集者の愛子(岸井ゆきの)を交え、かつて直実が編集担当だった吉田(大森南朋)による新作小説の掲載を、連載か書き下ろしにするのかといった話し合いの場面。そこで元担当の直実から節々に発せられる編集者としての「責任」や「矜恃」といった言葉の強度は、自身の仕事と真摯に向き合うことを進んで選ぶひとりの人間としての姿を浮き彫りにさせている。

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『金魚姫』

梅本健司

S__33153026.jpg ある女性が目に涙を浮かべ、もはやどうすることもできないことを言葉にするとき、隣でスマホを食い入るように見ている男がいることを気にかけることなく、カメラは彼女ひとりに寄っていく。一見このショットは、その空間にいるふたりの関係を切り裂いてしまうショットに見える。そして彼女の語りだけが聞こえてきて、ひとりの女性のモノローグが始まるのだと確信さえする。しかしこのショットはモノローグで終わることはない。カメラは、スマホを見ていた男、つまり本作の主人公である潤(志尊淳)の顔にパンして、彼は彼女の言葉に答える。そして続くショットでは、潤が先ほど見ていたスマホが映し出され、その画面が、目の前にいるその女性、潤の元カノ、あゆ(唐田えりか)が先ほど自殺したことを告げる。だから、この長いワンショットは、前述した通り、ふたりを切り裂く、別離を示すショットであるとやはり言えるだろう。ではなぜこの場面に、あゆへのズームから、驚く潤の顔へのパンと移行する、回りくどいとさえいえる奇妙なワンショットが選択されたのだろうか。

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『FUGAKU 1 / 犬小屋のゾンビ』

結城秀勇

「いたるところで水の音がする」。という言葉で幕を開けた『EM エンバーミング』上映後のトークの中で樋口泰人は、この作品の6年後の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の冒頭から作品を覆う陰鬱さに比べて、『EM〜』はどこかまだ楽観的な気がする、と述べていた。フィルムからデジタルへ、という撮影素材の変遷と重ね合わせて語られるその話を聞きながら、『EM』の死体と死体そっくりな男と彼らと血が繋がった少女は、『エリ・エリ〜』最終盤の中原昌也と、さらには『東京公園』の染谷将太と、なにがどう違うのだろうと考えていた。いや、そもそも『Helpless』以降の「北九州サーガ」三部作が、亡霊をどう扱うかの変遷そのものじゃねえか、などとも。
 だから続けて見た「FUGAKU」三部作でも、『FUGAKU 2 / かもめ The shots』の湖のほとりの舞台では水の音がしてかもめの死体とその剥製が出てくるな、などと考えてしまうし、『FuGAK 3 / さらば愛しのeien』で幽霊や骨の話が語られる背後でずっと鳴っている(たぶん)空調のノイズが、人々を居眠りへと誘う午後の雨の音のように聞こえて仕方がない。なかでもとりわけタイトルにそのものずばりゾンビが出てくる『FUGAKU 1 / 犬小屋のゾンビ』を見て、ああそうそう、そうだよな、と思ったのだった。

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『共喰い』 監督・青山真治インタビュー「惜別の歌/新たなはじまり」

S__33161218.jpg――昭和の終わりの時代を舞台とした、父と息子の血をめぐる物語であるこの『共喰い』を見て、やはり『Helpless』(96)をまずは想起させられました。『EUREKA』(00)、『サッド ヴァケイション』(07)を撮られていったあとに、まるで原点に還るかのような作品を撮ったことに、正直に言えば少し戸惑いを感じました。しかし、この『共喰い』はそれらの系譜とはまったく異なる作品であり、青山監督のキャリアの中でもかなり特異な作品であると思います。青山監督が脚本の荒井晴彦さんからこの『共喰い』の原作を薦められてお読みになられたとき、ぜひ自分が監督したいと思ったとインタヴュー記事などで語られていましたが、原作のどういった部分に惹かれたのか、まずはお聞きしたいと思います。

青山真治 『Helpless』から見て下さっている人たちには物語が一巡したかのように見えるかもしれないけど、僕としては『サッド ヴァケイション』以降に続く作品だと考えるべきだと思ってて。物語の中の女性が占める割合の大きさ、女性たちの集いや女性たちの語らいのようなものに、あの作品から重きを置くようになって『東京公園』(11)もそういう部分が大きかった作品だった。男が女をとらえる目と、女が男をとらえる目が交錯するようなことを『東京公園』ではやったつもりだから。さらにその延長線として、男の領域から女の領域へと踏み越えていくような、改めて女性たちによってとらえ直される存在としての主人公を描いたのがこの『共喰い』だと思う。

思春期というものがある過程を経て変わっていくのだとしたら、『暗夜行路』じゃないけれども、父権的なものから女性たちとの向き合いの方へ流されるように移行していって、その挙げ句に、いずれ主人公が自分本来の生や生き方を発見していく――そういう流れがこの作品で垣間見えたら良いなと。でも、この作品ではその最後までは描いてなくて、主人公の遠馬(菅田将暉)が女たちに再びとらえられるところで終わる。だからこそ、僕自身がここから先のところへ行くためにも、この田中慎弥さんの『共喰い』をやっておきたいと思ったんです。

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第二回は4月12日を予定しております