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September 9, 2022

『ザ・ミソジニー』高橋洋
千浦僚

[ cinema ]

 映画作家高橋洋はマッチョイズム傾向を持つひとであるが全方向にフェアでクリアな姿勢を持ち、メインに活動するホラージャンルにおいて女性賛美、女性崇拝的なところの強い作り手でミソジニー(女性蔑視)の逆、反ミソジニストに見える。
 映画『リング』(98年)は、原作の「貞子」と「呪いのビデオ」を具現化したことと、もともとは我が子の呪いを解こうと奔走する主人公が父親であったのを母親に変えた脚色ではっきりパワーと面白さを得たと思う。女、母であることで主人公と貞子が直結する回路が通じ、この改変で原作から映画へと大きな飛躍があった。その仕掛け人のひとりである高橋氏は以後もホラー、オカルト映画をつくるなかで、女性を強い欲望を持つ能動的な存在として打ち出してきた。近年の監督作のほとんどが女性主人公の映画だという、「女性映画の監督」でもある。それゆえに流行語化し、表面的な名指しになりつつあるミソジニーの語をタイトルに据え、人類の文化史、精神史くらいのスケールでそのことを捉えなおそうという本作を企画しえたのだろう。
 高橋氏は求められればJホラーのマスターとして振る舞い、実際にもそうなのだが、その監督作はもはやその範疇、スタイルにはおさまらない単なる「映画」、恐怖と怪奇が主題となる奇想異貌の映画をつくっているわけで、こちらもそう見たほうがいい。
 『ザ・ミソジニー』を見ながら私が思い出したのは、マルコ・ベロッキオ監督によるムッソリーニとその愛人イーダ・ダルセルを描いた映画『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09年)だった。もちろん、『ザ・ミソジニー』序盤で処刑されたムッソリーニと愛人クララ・ぺタッチの逆さ吊り遺体写真が映し出され、いろいろ言及されるため。
 『愛の勝利を~』で紹介されるイーダ・ダルセルは存在をムッソリーニと他の愛人や取り巻きに疎まれて精神病院に入れられ早世している。1937年没。ムッソリーニを批判し善導しえたかもしれぬ者が狂人とされてしまうことを問うあたりが実にベロッキオらしい題材といえるが、このイーダ嬢の存在は、ムッソリーニとクララの逆さ吊りの予兆であるのか、対極のイメージなのか、ともあれ連想せざるを得なかった。また『愛の勝利を~』は『ザ・ミソジニー』同様、歴史的フッテージの引用に満ちた映画である。ニュース映画がふんだんに入っている。ベロッキオは03年の、赤い旅団によるアルド・モロ元首相誘拐殺害事件を描いた『夜よ、こんにちは』でも、誘拐メンバーのひとりが悪夢として、理想から外れてしまった失望の表象として見るイメージに『レーニンの三つの歌』(監督ジガ・ヴェルトフ 1934年)の、「レーニンが愛用していたがいまは座る者のないベンチ」の画を挿入して見せていた。
 ベロッキオが狙うのはそれらの映像をほとんど役者のひとりか欠くことのできない調度のように扱い、出演者と併置し、共演させ、そのことで映画を歴史と世界に根ざしたものにすることだろう。『ザ・ミソジニー』も世界暗黒史の画像を提示することでそれを為している。また、そういった引用画像・映像がもはや由来すら説明できずただ在り、忌まわしさと効力を持つ、というのをやろうとしたのが「呪いのビデオ」だったのだろう。「呪いのビデオ」中の被り物をした人物がなにかを指差している姿はテレビで流れた宮崎勤の現場検証の姿にインスパイアされたものだそうだが、いま宮崎勤と言われてすぐわかる人は、ビデオテープが何か知る人はどれだけいるだろうか。風化する呪いのイメージに替わるものが探されている。
 ......『ザ・ミソジニー』のタイトルバック、木々の葉の重なりを見上げたカットのつらなりは『顔のない眼』(監督ジョルジュ・フランジュ 60年)のオイゲン・シュフタン撮影による同様の画面に迫るもので、観る者を強く掴んで本作にひきずりこむ。撮影が全篇にわたって素晴しい。微塵も薄さ軽さがなく、陰影は強く、暗さのなかで色彩が濃く、圧倒的。
 音響も見事な仕事ぶりで、そのロケーション設定なら聴こえてくるであろう音(...として、つくられている音響)が粒ぞろいで、特にカエルの鳴き声は 「マクベス」をはじめとする魔女的な世界を観客の無意識に直感させる。重要な事件として語られる人物消失を地縛霊的にリピートする姿なき靴音と絶叫や、ホーミーのような魔術攻撃音、魔方陣によって肉体が斬られる音など、音響の意味と面白さが大きかった。
 ダブルヒロインの河野知美と中原翔子はもう神々しい怪物にしか見えない。
 本作をいちばん小さく解釈すれば、ほとんどすべての場面が中原演じるナオミの心象ということになるだろう。ナオミは河野が演じたミズキと会ってもおらずビデオ通話でやりとりしながら戯曲を書き上げた、その執筆中の妄想が本作で見せられたもの、そのミズキも最後の通話の様子から既にこの世にないとナオミは知る......というふうに観えるが、全篇の語りの多重性と、そのレイヤーそれぞれでの人物の存在感の強さが論理的な話の枠組みを食い破る。
 ここでの河野、中原の表現力がすごい。ミズキが語る暗闇恐怖(むしろ黄昏恐怖か)は、高橋氏の若いときの実際の症候だそうで何度か聞かされたことがあるため、あの場面は非常に真に迫って見えたのと、監督が俳優におおきなものを託していると感じた。中原さん演じるナオミは、オカルティックバトルヒロイン度において、かつて演じた『狂気の海』(監督高橋洋 08年)の古代地下文明富士王朝の女王を超えたと思う。なおかつ『ザ・ミソジニー』ラスト画面の、別れを告げる情感......。
 横井翔二郎氏が演じた大牟田は、サタニックホラーの佳作 『悪魔の祭壇・血塗られた処女』(監督トム・マッゴーワンほか 脚本フィリップ・ヨーダン 75年)の、不老不死の悪魔青年オリヴィエを思わせる怜悧さで実によかった。『悪魔の祭壇~』のクライマックスはこの悪魔青年が女ふたりから執拗な殺し、切り刻みを受けつつも哄笑してなかなか絶命しないという傑作場面であり、横井氏演じる大牟田にはそういう気配があった。いや、『ザ・ミソジニー』ではそうはならないが。彼もまた蛇であったり、息子であると同時に恋人や夫でもあったような多重役柄。
 ......人物らは一同に会した、魔術秘密結社の陰謀劇、魔術バトルもあった、と、見せられたすべての場、すべての次元の語りをあったこととして受け入れるのが本作の最大の解釈であり、よい見方だろう。本作は2022年で最も高密度な映画、見甲斐のある映画である。

9/9よりシネマカリテほか全国順次ロードショー