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August 29, 2022

『寛解の連続』光永惇
金在源

[ cinema ]

 私が一人暮らしをはじめたばかりの頃、近所のレンタルCDショップでLIBROの『COMPLETED TUNNING』というアルバムを借りた。収録された曲の中でも、一際異彩を放っていたのが小林勝行というラッパーが参加した『ある種たとえば』という楽曲だった。太古の時代に生きた男が出会いと別れ、生と死、輪廻転生を繰り返し最終的に現代に生きる小林勝行という一人の人間へとつながっていく壮大な物語が五分の中に詰められていた。人物や情景の描写、小林の世界観と感性に強い衝撃を覚えた。そして何度倒れたとしても自分の生を全うしようとするリリックは、見知らぬ土地で「このままでいいのだろうか」と不安と焦燥に駆られて生きる私の生も肯定されたような気がした。
 『寛解の連続』はそんな小林勝行という日本のヒップホップシーンにおいてリスナーから熱狂的な支持を集めたラッパーが躁鬱病(双極性障害)を患い、隔離病棟での入院生活を経て社会復帰し再びシーンに戻ってくるまでの姿を追ったドキュメンタリーである。彼がセカンドアルバム『かっつん』を制作する過程と私生活、そして彼の信仰と祈る姿が映し出される。彼は実家の一室にこもってリリックを書き、ヘルパーとして障がいを持つ人を介助する仕事に携わりながら、自身の病と向き合っている。
 自宅で自暴自棄になり、隔離病棟での生活を余儀なくされた経験を小林は思い返しながら目の前に広げられた小さな紙に言葉を書きつけていく。思い出したくないほど辛い過去に向き合い、それでも言葉にしていく営みは生半可なものではないだろう。時折彼は耐えられず涙を流す。「バリきつかった...」と。それでも彼はその営みをやめない。また、彼はカメラの前で、「南無妙法蓮華経」を唱え祈る姿を隠さない。小林は創価学会の信者(おそらく二世)である。彼は自身の信仰を他者に押し付け入信(創価学会の言葉では「折伏」)を促すようなことはしない。「ただツレをがっつり幸せにしたい」。そのために彼は祈る。作家の都築響一が以前出版した『ヒップホップの詩人たち』に収録されたインタビューで小林は、信じている教えをエンターテインメントとして伝えることの難しさを語っている*1。本作の序盤でも自分の信仰をリリックに込めるか思い悩む姿が映されている。最終的に彼は自身のアイデンティティとラッパーとしての新たな姿を模索する中で、信仰を楽曲中にさらけ出すことを選択する。自分の病と信仰により救われた経験を歌うことで慰められる誰かがこの世に存在しているはずだと小林は疑わないからだ。小林が苦しみながらリリックを綴る姿に彼が祈る姿が重なって見えた。
 印象的だったのは、作曲中に小林が愛について自問自答をする場面である。「愛は?(中略)思いやりと行動が伴ってること。これが男。(中略)ちゃんと行動に移すことによって、男は結果を得れるねんな」と口にする。彼はその他の楽曲でも「男」という言葉を多用し、自分は「男」であると宣言する。ヒップホップ自体、歴史の中である種マッチョなジャンルとして発達してきた背景はあるが*2、彼が親しい相手に使う「ツレ」という言葉にもそのような片鱗を感じる。社会がつくりだした「男」という肩書きが、彼の自意識の重要な部分を構成していることが窺い知れる。自分自身のプライドを強く表現する小林の楽曲に憧れや抗えない魅力を感じてきたと同時に、幼少期から男らしさという言葉に強い反発を覚えてきた私は、彼の「男」へのこだわりに違和感も抱いてきた。
 そのような「男」という自負を持つ小林は、躁鬱を経て、ヘルパーとして働きはじめる。彼が初めて入浴介助で利用者の陰茎を洗ったとき、彼の「男」としてのプライドが壊れショックを受けたと語っている。それは彼が理想とする「男」の姿ではなかったのだ。そして本当に辛い状況にあるのは自分ではなく、彼らだと続けて小林は語る。社会構造の中で生きづらさを押し付けられている人々がいるのは事実であり、小林自身もまた本人が気づかないうちに、社会が彼に示した理想の「男」像に囚われ苦しめられているのではないか。そんな小林が「男」としてのあり方をひとつ手放した経験が、彼を少しだけ解放したようにも見える。作中、小林は精神病院の喫煙所で出会った人や利用者の悩みに耳を傾け、ときには冗談を言い合う。自身の愛称を冠したセカンドアルバム『かっつん』は収録曲の多くで小林と他者の対話が描かれる。私はそこに小林の周囲にいる人々の姿を自然と重ねてしまう。ツレとして彼らに接し、時に手を握る小林の表情は不器用でありながらも目の前にいる人にちゃんと向き合おうとする誠実さが滲み出ている。そこにいるのは「男」などという言葉は必要のない「かっつん」という一人の人間だ。
 躁鬱病は完治することが非常に難しいとされ、「寛解」という言葉が用いられる。本作の冒頭で「寛解」とは「病気の症状や徴候が一時的に軽快した状態、あるいは見かけ上、消滅して正常な機能に戻った状態」と説明が入る。小林は自身を含め、心を病んだ人々について「受け止めすぎやねん」と言葉にする。この社会は人々に「健康」に暮らし、その構成員として「正常」に機能することを求める。適応できなかった者には病名がつけられ、「不健康」の烙印が押される。しかし、自分をごまかし、社会からの要請に応答し続ける必要は本当にあるのだろうか。小林は「人と人は深いところで繋がっている」と考える。そして自分の隣にいる人に語りかけるようにラップする。アルバムを締め括る『オレヲダキシメロ』は小林が握るボールペンの視点から綴られる。リリースパーティの最後、小林は終わりのフックを以下のように歌う。

 「俺は黒いペン 今日、生きた正義残すねん いつの日か いつの日か 俺らの先輩と後輩が手を組んで 俺らの世界を 良く変えていく」

 「受け止めすぎやねん」と語った小林は「放出せなあかんねん」と続ける。「ツレを幸せにしたい」そんな小さな祈りによって紡がれた言葉が社会に解き放たれる。「みんなラップしたらええねんけどな」。そう語った彼の笑顔はこの映画の中で最も輝いていた。

「THEATRE for ALL」にて9月3日(土)より再配信予定


*1都築響一『ヒップホップの詩人たち』新潮社、2013年1月、p.209

*2長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』アルテスパブリッシング、2011年10月、p.164