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November 3, 2022

《第35回東京国際映画祭》『イルマ・ヴェップ』(2022)オリヴィエ・アサイヤス
松田春樹

[ cinema ]

S__46579717.jpg 1996年の『イルマ・ヴェップ』(以降、旧『イルマ・ヴェップ』と記載する)をHBOの連続ドラマシリーズとしてリメイクしたこの新しい『イルマ・ヴェップ』(以降、新『イルマ・ヴェップ』と記載する)は八つの章立てから構成されている。ドラマシリーズとしての全体尺も413分と膨大になり、オリジナルの99分と比較すればその違いは明らかだ。しかしそもそも、この作品のコアとなっているもう一つの映画、1915年から1916年にかけて公開された連続活劇『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』が七時間に及ぶ大作であるということを考えれば、以前のバージョンが短すぎるという見方をするのが妥当だろうか。旧『イルマ・ヴェップ』が『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』のほんの一部のシークエンス(とりわけイルマ・ヴェップがシルクのボディスーツを見に纏って悪事を働くシーン)を取り上げていたのに対して、この新『イルマ・ヴェップ』は、その起源と同等の上映時間でもって、原作が持つ壮大な物語に挑んでいるかのようだ。確かにこの新『イルマ・ヴェップ』は吸血ギャング団の物語を出来るだけ描写しようと努めており、エピソードのタイトルには原作同様のタイトルまで名付けられている。しかし、「切られた首」や「殺しの指輪」といった魅惑的なタイトルが導く劇中の犯罪物語は、しばしば劇中監督のルネ(ヴァンサン・マケーニュ)による「Coupe!(フランス語でカットの意味)」という唐突な掛け声によって断ち切られるのである。「Coupe!」という言葉の響きによって、物語の世界から撮影現場という現実に引き戻されるたびに、この新『イルマヴェップ』の骨格が吸血ギャング団の物語にあるというよりは、旧『イルマヴェップ』の方にあるという気がしてくる。そもそも旧『イルマ・ヴェップ』はトリュフォーの『アメリカの夜』(1961)へのオマージュとして、カメラの反対側にいるスタッフたちを映し出したメタフィクションである。言い換えれば、物語と言うには及ばないような、スタッフ同士の衝突や入り組んだ恋愛事情といった、より現実的で、低俗な、生活と労働についてのドキュメントである。それにも関わらず、新『イルマ・ヴェップ』の中で、オリヴィエ・アサイヤスの分身とも言えるようなキャラクターとなったルネ自身が執拗に「これはドラマではなく映画にしたい」と主張する一方で、「ドラマは映画の引き伸ばしである」と自嘲的に語っているのは印象深い。おそらく、新『イルマヴェップ』が『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』のような壮大な物語を理想としながらも、どこか旧『イルマヴェップ』の引き伸ばしのようなものに成りかねないという危険性を、アサイヤス自身が誰よりも自覚しているということではないだろうか。
 私は正直、このルネの言葉に含まれる葛藤をひしひしと感じながら見ていた。撮影現場の始まりと終わりだけが明確にあって、その間の時間が延々と流れていく感覚。それはそれで、いろんな登場人物にそれぞれの生活があって、けれど労働は続いていて......を見ること自体は楽しい。しかし、その引き伸ばされた時間に一体どれだけの価値があるのか。旧『イルマ・ヴェップ』の99分こそが映画としてふさわしい時間なのではないか。といった様々な疑問が頭をよぎらずにはいられなかった。
S__46579715.jpg 鮮やかにペイントされたタイトルシーケンスにアレックス・デスカスの文字が映る時、あるいはジャンヌ・バリバールの文字が映る時、イントロはAli Farka Toureの旋律を思い起こさせ、つまり、この映画の冒頭は私に『8月の終わり、9月の初め』(1998)を思い起こさせた。映画学校を出たばかりのレジーナという名のアシスタントはその見た目からして『DEMONLOVER デーモンラヴァー』(2002)のコニー・ニールセンを思い起こさせ、彼女を引き連れ、パリ中を駆け巡るミラの姿は『アクトレス 女たちの舞台』(2014)のジュリエット・ビノシュや『パーソナル・ショッパー』(2016)のクリステン・スチュワートを思い起こさせた。そして、あらゆる登場人物たちがアサイヤス作品の常連俳優たちによって演じられていることは極めて示唆的であり、私はこの映画を見ながら、同時にこれまでの幾つものアサイヤス作品を思い出すことになった。この新『イルマ・ヴェップ』の特殊な試みは、一つの作品の中にアサイヤスのフィルモグラフィーを反映している点である。それゆえ、お馴染みの俳優たちがキャラクターに与える印象は、今その場に居るという新鮮さに加えて、どこかで見た誰かに似ているということ。アサイヤスの映画に初めて映るアリシア・ヴィキャンデルさえもが、他の映画の誰かを表象せずにはいられないこと。新『イルマ・ヴェップ』の登場人物たちには過去と現在の二重の時間が反映されており、それは彼らが生きた90年代から現在に至るまでのある時間に置き換えられる。要するに、私はこう思うのである。新『イルマ・ヴェップ』の膨大な時間を価値あるものとするには、ある時代の証人が必要だった。引き伸ばされた時間は少しずつ、アサイヤスが長年ともに過ごした俳優たちの幻影によって埋められていくのである。語られるべきことはこれほどあったのだ、とでも言うかのように。
 最後にもう一つ、旧『イルマヴェップ』とは明らかに違う、そのショットの厳密さに触れなければならない。忙しなく動き回る望遠レンズが、正確極まりない軌道の上にあることで独自のフレームを獲得していた90年代のアサイヤスのフィルム。しかし、新『イルマ・ヴェップ』のフレームはもっと緩やかで、柔らかい。これは個人の仕草や顔のクロースアップではなく、複数の人物を同時に捉えようという試みである。その枠組みから見えるのは、新『イルマ・ヴェップ』の撮影現場を生きる一つの共同体の姿であり、それは90年代から現在までのある記憶を表象する、つまりはオリヴィエ・アサイヤスの歴史に他ならない。

11月3日よりU-NEXTで配信開始

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