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November 7, 2022

《第23回東京フィルメックス》『すべては大丈夫』リティ・パン
鈴木史

[ cinema ]

IMG_7064.JPG 広がる砂丘。突如、砂を切り裂いて、地中からオベリスクのような四角柱がせり上がってくる。それが、微速度撮影でとらえられた植物の発芽の光景のようですらあるのは、実際の砂漠に比べて、ひとつひとつの砂の粒が大きく、ミニチュアを撮影したものだとわかるためだ。やがて、村々があらわれ、素朴な表情を持った人間やイノシシ、猿といった動物たちの人形が姿をあらわす。そしてそこに、まるで人類の野蛮と汚辱にまみれた歴史を再現しているような記憶の箱庭が、形作られていく。孤独な幼子が、スクリーンという箱庭で、その傷付いた心を癒すために人形遊びをするように。
 本作監督のリティ・パンは1964年、カンボジアのプノンペンで生まれた。両親やその他の親族をクメール・ルージュによる強制労働キャンプでの飢餓と過労で亡くし、1979年にタイとの国境を抜け、クメール・ルージュから逃亡。その後、フランスに移住し、高等映画学院(IDHEC 現La Fémis)を卒業。ドキュメンタリー映画の監督として、映画作家のキャリアをスタートさせた。彼は『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013)でも、ミニチュアを用いることで、自身の出自に基づいた、村や森、強制労働キャンプといった深い傷を伴う記憶の光景を、それがミニチュアであるということによってトラウマとの距離を作り出し、かろうじて再現して、観客と分かち合うことを可能にした。ときにヴァルネラブルな人々は、自身のトラウマを語るために、そのような模造を作り出す。先ごろ公開されたヨナス・ポヘール・ラスムセン『FLEE フリー』(2021)においても、ムジャーヒディーンの侵攻を避けてアフガニスタンを逃亡し、国から国へ難民となって逃げてゆく主人公アミンの物語が、アニメーションによって描かれていた。それでも『FLEE フリー』で、アミンが深い傷を伴う記憶を思い出すときは、そのアニメーションの「画」すらも像を結ばなくなり、おぼろでバラバラの抽象的な線やざらつきのみがスクリーンを満たしていた。斯様に、トラウマを伴う記憶と向き合うとき、人はその記憶との距離が必要なのだ。
 本作『すべては大丈夫』では、『消えた画 クメール・ルージュの真実』のようなリティ・パン自身の経験に深く根ざした語りからはやや距離が取られ、近現代の暴虐にまつわる歴史がある一般性を持って振り返られてゆく。はりぼての村や森と、可笑しな顔をした動物たち。イノシシの独裁者は、牙を剥き出しにし、怒るとごまつぶのようなその小さな目を吊り上げる。チンパンジーやオランウータンの姿をした高官たちは、イノシシの機嫌を伺っているようだ。この動物たちの村では、赤や青の液体が透明な容器の中でふつふつと煮えたち、ごてごてした機械装置がなにやら音を立てている。その様は、イノシシの独裁者がスクリーンの中に見つめる、フリッツ・ラング『メトロポリス』(1927)の光景のようにサイエンス・フィクションめいており、加えてそれが素朴な表情の動物たちによって繰り広げられることで、ジョージ・オーウェルによる小説『動物農場』(1945)のような政治的な寓話をも想起させる。イノシシの見るスクリーンには、アドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリン、ポル・ポト、あるいは毛沢東やレーニンのような人々が姿を現し、ベトナムの森を焦土にしてゆくナパーム弾の炸裂や、毛沢東語録を掲げる群衆、行進する兵士たち、原水爆実験の光景が広がる。時折、「ラ・ジュテ」という言葉が、画面外からの声となって響いたかと思えば(この声はクリス・マルケルの監督作のなかでも、『ラ・ジュテ』よりは、むしろ『レベル5』のような、女性らしき人物の淡々としたフランス語として聞かされる)、小さなカメラを小脇に抱えたジャン=リュック・ゴダールが後ずさりする姿すら垣間見ることができる。それはいかにも、映画や映像に取り憑かれた作り手が弄する、ありきたりなイマージュの連なりとも思えるのだが、唯一、牛や豚、鶏の屠畜の光景、宇宙船に乗せられた犬といった動物たちの映像が、この映画に特異性を持たせている。猿が開頭実験をされている光景が劇中のスクリーンに広がる。チンパンジーとオランウータンの高官が、こちらに背を向けた、なにやら豪勢な白い椅子を挟んで、その光景を見つめているが、カメラが180度切り返すと、白い椅子に座っていたのがイノシシの独裁者であることがわかる。ここで、イノシシは何を思い死にゆく猿を見つめているのか? チンパンジーとオランウータンは何を思い死にゆく猿を見つめているのか。逆らいがたいイノシシの傍で、類人猿たちはなにか口籠もっているようにすら思えるのだが、斯様にわたしたち観客は、これら人形にすらその形象に差異を認め、壁を作っていくのだ。それが本作で振り返られる、近現代の暴虐の数々の根源でもあっただろう。ベルトコンベアを、無数の卵と鶏の雛たちが流れ、落下し、裁断機で切り刻まれてゆく。本作に登場するヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)の人形たちの素朴に練り上げられた表情には、もはや性別を認めることも出来ないのだが、一方で、スクリーンの中の、食用卵を生産する上で不要になった雄の雛鳥は、周到に差異を認められ消去されてゆく。われわれはあらゆるものに差異を認め、壁を作る。中盤、映画の中で、人形たちは泥を練り上げて、彼らの身の丈を超える壁を作り始める。「壁は自分の中につくられる」と声が言う。
 事物を微細に見つめてゆけばゆくほど、映画は袋小路に入っていくかのようだが、「武器を置けばよかったんだ」という、永遠に果たされそうもない言葉を残して、本作は締めくくられるだろう。映像という手段を置きはしないリティ・パンは、「武器を置けばよかったんだ」というその不可能と思える願いそのものを、わたしたち観客のなかに一旦は置くことで、映画に幕を下ろす。