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November 5, 2022

《第23回東京フィルメックス》『ソウルに帰る』ダヴィ・シュー
梅本健司

[ cinema ]

IMG_7060.JPG 韓国歌謡が冒頭のクレジットとともに小さく響き渡り、やがてヘッドフォンを付けた面長でボブカットの女性が映し出される。彼女は目の前にいる誰かに気付き、慌ててヘッドフォンを外す。その女性テナはソウルのゲストハウスで働いていて、今は客に応対しなくてはならない。英語で話すアジア系の女性客が、テナが聴いていたのはどんな音楽なのかと問うと、テナはヘッドフォンをその女性に渡す。女性がヘッドフォンを付けた途端、先程よりも大きな音で韓国歌謡が流れるから、むしろこの映画とより意識が同調した、主人公たる人物はその客の方なのではないかと気づく。とはいえ、ここで重要なのは、その女性客であるフレディとテナの出会いが、切り返しで撮られ、それぞれのクロースアップは、背景がぼやけるほど近いということだ。つまり、その描写はこの映画にとって、決定的な出会いであることを感じさせる。
 事実、やはりこの映画の主人公であったフレディは、生まれて間もない頃に韓国からフランスに養子に出された、韓国語を話さない韓国人であり、テナは、生まれて以来初めて韓国に戻ってきたフレディの生みの親探しを手伝うことになるだろう。フレディが自分の両親が利用した養子縁組の施設を訪ねると、子は親に電報を送ることができ、向こうが望めば再会することができると説明される。どうやら別々の場所に住んでいるらしい父と母に躊躇いながらもそれぞれ電報を出すと、父からだけ返事があり、フレディはテナとともに彼のいる街を訪れる。だが、言語や文化の壁があり、何より手放したはずの子に執着する親に対して、娘は憤りを感じているようで、再会は気まずいものに終わる。一方で母親との再会は、母親が望まなかったことによって実現さえしない。電報は一年に3回までしか送れないらしく、フレディは韓国での短い滞在期間でその回数を使い切る。その後、クラブでのフレディの不躾な振る舞いによって、テナとの関係が険悪になってしまった帰り道、酔っ払ってはフレディにメールや電話をしてくる父親が待ち受けており、フレディはそんな父親を、テナの前で激しく拒絶する。この映画が、三部に分けられるとしたらひとまずここで唐突に一部が中断され、2年後という字幕とともにニ部が始まる。そして、この映画にとって主軸であったのは、フレディとテナ、あるいは父との関係ではなかったことがわかってくる。
 2年前の粗野な風貌とは異なり、髪をジェルで固め、黒っぽい口紅を塗ったフレディが中年のフランス人男性とデートをする場面から二部は始まる。ふたりがいる場所はパリではなく、ソウルである。彼と別れたあとで、フレディのボーイフレンドの韓国人によって秘密裏に用意された彼女の誕生日パーティーが開かれる。フレディは少しだけ韓国語が理解できるようになっている。そこで、自分と同じように実の親を探す女性に対してフレディが明かすのは、2年の間に彼女が母親に対して、さらに6回の電報を送り、その上で会うのを拒絶されているということである。先刻、フレディが待ち合わせしたフランス人の男が放ったセリフ「きみは前だけ見る人だろ」、それは的を外しているように思える。彼女は2年前と変わらずに、母親との再会を望み続けているようにここでは描かれているからだ。
 フレディが実の母親になぜ会いたいのかという理由は、この映画において葛藤とともに描かれ、はっきりとしたものに着地させられることはない。フレディにとって、生みの親に会うことは、まるでこれまでのフランスで過ごしてきた人生を捨て、別の人生をやり直すようなことでもあり、時折彼女にブレーキをかける。それでも、彼女は母親からの返事を待つことをやめられない。生みの親に会いたいという願望は、人によれば説明不要なごく自然なことかもしれないが、だからこそ、この映画はそこにある言い尽くせない動機をフレディ自身にとっても理解ができない謎として宙吊りにしていく。
 二部では奇妙なことに、一部で登場したテナ、あるいはその友人たちは、記憶に残る冒頭を裏切るように映画から一切排除される。じっさい、フレディがテナともう会っていないのかどうかはわからないが、映画自体が彼女らの関係を描くことをやめてしまったかのようなのだ。先回りすれば、さらに5年が経過した三部でテナがいたゲストハウスにフレディは再び泊まるのだが、テナがいるのかいないのかは明かされない。そうした映画の語りが強調するのは、第一部でフレディが築いた関係はほとんど無となり、彼女の周囲は一変したにも関わらず、加えて一部で見せられた小さくない躊躇いにも関わらず、(相変わらず情けない父親との細い関係とともに)母親と会いたいという願望が想像以上に根強く維持されているということである。
 この映画は、日本の漫画やアニメでよく見る「ループもの」に少し似ているかもしれない。主人公はある問題を解決できるまで同じ時間を繰り返しており、その期間に築いた関係は毎回振り出しに戻り、孤独に陥っていく。そのようなファンタジーな設定をこの映画は持ってはいないが、フレディは同じ時間を「ループ」しているようだ。たしかに彼女もその周囲の世界も変化する。だが、彼女の変化する風貌も、すぐに変わるボーイフレンドも、与えられたミサイルの国際マーケットで働くという大層な職業も、改善の兆しが見える父親との関係も、あるいは2年後、5年後、1年後と費やされる時間も、むしろ、それでも一向に会うと返事をしてくれない母親を待つという、変わることなく反復し続けるフレディの時間をこそ逆説的に強調する。通常の「ループもの」なら用意された抜け道、たとえば、まさに日本のライトノベルが原作になった『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014、ダグ・リーマン)では、トム・クルーズが「ループ」する度に戦闘経験を重ね、強敵を倒すことでそれを抜け出そうとしたものだが、この映画ではそうした個人の蓄積が成果をあげることはない。フレディにできるのは、電報を3回送り、母親の応答を待つことだけである。無理矢理にでも、会いにいくという選択を取れないのは、彼女の相反する気持ちから理解できないものではない。もしくは、フレディがこれまでの人生からは一見隔たれ、別の場所にあるような自身の出生とほどよく和解する方法がないのなら、生みの親と対面することも同様に振り出しに戻るようなことでもある。フレディが「ループ」を抜け出すことはとても困難に見える。
 しかしながら、唐突にフレディは三部の終わりにおいて母親と会うという目的を達成する。理由は、養子の気持ちに理解のある施設の職員が尽力したのだろうという曖昧で拍子抜けするものだが、ともかく、フレディは、彼女が養子に出された街の施設で母親と再会する。けれど、この再会はかなり不確かな方法で描かれる。会議室で座って待つフレディが横から捉えられ、奥にはドアが映っている。焦点は彼女だけに合っており、ドアから職員の男性が入ってくると、フレディはそちらを向き、フォーカスはそれに合わせて男性にも送られる。カメラはフレディと一体になっているわけではないが同調している。しばらくすると、母親が入ってくるのだが、それ以前から動揺し、顔がグシャグシャになるほど泣いているフレディは母親を見上げることはなく、それゆえにフォーカスも母親に送られることはない。母親は、ぼやけ、はっきりと姿が映ることはないのだ。ショットが移り、フレディと彼女に抱擁する母親がややロングショットで捉えられるから、やはり母親の姿をしっかりと認識することはできない。個人的にはこの手法が少しアカデミックに感じてしまったものの、こうした不確かさによって、母親に会いたいというフレディに取り憑いていた願望は完全に叶うことなく、再び宙に吊られる。フレディは母親に会うことを望みつつ、同時にそれを拒否してもいる。彼女は結局のところ同じ時間に釘付けにされてしまう。留意すべきは、フレディというキャラクターによってそうした印象が生まれるのではなく、彼女にある側面では同調しつつも、変化を見せかけのものにし、留まるしかない時間を本質的なものとして選択したこの映画の語りこそがそうした印象を与えているのではないかということだ。
 不確かな再会は、やはり再会ではなかったことが、最後、残酷にも告げられる。フレディはまた「ループ」を繰り返すのだろうか。反復される誕生日に、ソウルではない土地のゲストハウスで、当然のごとくフレディはピアノを見つけ、おもむろに鍵盤を叩き始める。その背後に差し込む光をどう捉えるべきなのか、いまだに戸惑っている。

『ゴールデン・スランバーズ』結城秀勇