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January 22, 2023

『ピアニストを待ちながら』七里圭
結城秀勇

[ cinema ]

 正確な語句を忘れてしまったうえに、それが劇中劇のセリフだったのかセリフの解釈を討論する言葉だったのかすら忘れてしまったのだが、とにかく5人の登場人物が出揃ってすぐに、「それって外の中にいるってこと?」という言葉が発せられる(さらに呆れたことには、それを言うのが木竜麻生だったのか大友一生だったのかすら覚えていないのだが)。
 夜の図書館に閉じ込められて、外に出たと思ってもそこは中、「ゴドーを待ちながら」に似た劇中劇、「演じるとは自分の中に劇場を持つこと」、この作品にはいたるところに入れ子構造がある。あるはずなのだが、冒頭で井之脇海が入り口の自動ドアに向かい、カットが変わり無人で開く自動ドア、そしてまたカットが変わり図書館の別の部屋にいる井之脇......、という無限ループ感とは裏腹に、『ピアニストを待ちながら』には「中の中の中の......」あるいは「外の外の外の......」といった多重の入れ子があるわけではない。と言ったそばから、じゃあ劇中劇の展開をいままさに自分が置かれた状況と同一視している斉藤陽一郎の存在はどうなるかとか、芝居の練習を眺めている澁谷麻美のいたガラスで仕切られた向こうの部屋は「中の中」とも言えるのではないか、などと疑問も浮かんでくるのだがとりあえず無視する。というよりも、図書館に閉じ込められられた彼らは、レイヤーの多重性の中で迷子になっているのではなく、明らかにメタな視線が存在するのにもかかわらずあたかも同一平面上の外と中だけを問題にしているように見える、ということかもしれない。
 というのも、外はこの作品のかなりの割合の部分で、現に目に見えているからだ。外へ通じる道はガラスの自動ドアで、その近くへ行けば開きさえする(そして開いた向こう側から、遠く離れた街宣車から聞こえるような、聞き取れない言葉が響いてくる......)。登場人物たちの背後にいくつも開いた窓が夜の闇を映している。極めつけは、澁谷麻美と井之脇海が本来出ることができない外であるはずの中庭に出る場面である。「中庭」という字面の通り中なのか外なのかよくわからない場所で、井之脇海は澁谷麻美といくつか言葉を交わし、「そっちには行けない」と言われた方向に向かうと、また図書館の中にいる。窓の外にはまだ澁谷がいる。
 そして続く場面で、図書館の中に戻ってきた澁谷の姿が、暗闇を切り取る窓ガラスの上に映りこんでいるのを目にする。この人はさっきまでガラスを境にした線対称の位置にいたはずなのにいまでは図書館の中にいて、でも彼女の映像はさっきまでと同じ外の方にいる。こんなふうに外を映す窓に映像として浮かび上がるのはなにも澁谷だけではなく、しばしば彼らはみんな、窓辺にたたずむ者と窓に映った映像が隣り合うように対話をする。してみれば、冒頭に引いた「外の中にいる」とはなんらの言葉遊びでもなく、彼らが置かれた状況そのものである。
 ピアニストを待つ、という劇中劇内の目的がいつのまにか、それを演じるひとつ「上」の階層であるはずの彼らが外に出るための方法にすり替わっている。さらに「上」の目線からすれば、『トウキョウソナタ』で天才ピアニスト少年を演じた井之脇が弾いたピアノの音(実際に彼が弾いた音が作品内で使われているのだと、舞台挨拶で語っていた)が木竜や大友を踊らせるのだから、もうそれ絶対彼がピアニストじゃん、と斉藤陽一郎と同じようなことを思うのだが、しかしその案が採択されることはない。そうしていくつもの「上」にあるはずのことがひとつの平面に押し込められた結果、ただひとつ残されたはずの外か中かという二項対立は無効化する(「選んだわけでもないことが、いつのまにか選択の結果にされている」)。
 以上のようなことは、『ピアニストを待ちながら』という作品の核心というよりも、あくまで前提条件に過ぎないのだろうが、初見で見た感想として記しておきたい。私がいま本当に気になっているのは、登場人物たちの会話にいきなり挟まれるジャンプカットや、カット間の「性急な」とも思えるつなぎ、そうした「待つ」こととは正反対にも思える方法でこの作品が構築されていることなのだが、それについてはまた機会を改めて。


2023年1月17日に早稲田大学小野講堂にて上映

  • 『あなたはわたしじゃない』七里圭 結城秀勇