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March 28, 2023

『フェイブルマンズ』スティーヴン・スピルバーグ
山田剛志

[ cinema ]

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 長さの異なるフィルムの切れ端が編集台の上に並べられる。切れ端にはシーンナンバーの書かれた付箋が貼られ、主人公・サミー(ガブリエル・ラベル)はそれを真剣な眼差しで点検し、慣れた手つきで繋ぎ合わせる。サミーの母・ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)が繰り返す、「すべての出来事には意味がある(everything happens for a reason)」という言葉は、現実に起こった出来事をフィルムに定着させ、フィルムの切れ端に意味の萌芽を見出し、然るべきロジックに基づいて切断と接続を繰り返すことで物語を醸成する、映画づくりの原理を言い表しているように思える。地平線から伸びる黒々とした竜巻目がけて車を走らせるミッツィの口から発せられたその言葉はサミーの耳を捉える。しかし、彼がその意味を理解するのはずっと後になってからだ。中学校に進学したサミーは、ジョン・フォードによる西部劇『リバティ・バランスを撃った男』(1962)に影響を受けて同級生を主役に西部劇を撮り上げるなど、映画づくりを謳歌する一方、ラッシュフィルムに定着したイメージの嘘っぽさは彼を辟易させる。サミーが自身の撮った映像に初めて真実を見出すのは、キャンプに興じる一家の様子を記録したフィルムに、ミッツィと父の同僚・ベニー(セス・ローゲン)の秘められた関係を観取するシーンにおいてである。ミッツィの腰に伸びるベニーの手、ベニーを見つめるミッツィの眼差し、吊り橋の上の抱擁。それらのイメージが編集モニターに映し出され、点と点が繋がるように、ただならぬ意味が浮き彫りになる。モニターの前で茫然自失となるサミーの脳裏に、かつて聞いた母の言葉が去来したかどうか。その後、上記のフィルムはミッツィの前で映写され、彼女を慟哭させる。興味深いのは、サミーのみならず、ミッツィ当人もまた、一連の映像に単なるスキンシップ以上のものを見出して戸惑うという点だ。サミーが手がけたフィルムは、ミッツィの無意識、秘められた欲望を浮き彫りにする。すべての夢は願望充足であるというフロイトの定式に従うならば、フィルムに刻まれた映像は、ミッツィの"夢"に似たものであると言えるかもしれない。注目すべきは、ミッツィが心の中で思い描くかぎりでは願望充足の機能を担っていた夢が、ひとたび他者の眼差しを介して具現化されると、彼女の内面に強い異和の感情を生じさせるということだ。批評家の山城むつみは、著書『ドストエフスキー』で、ミハイル・バフチンの議論を敷衍して「自分の心の奥底に秘めた言葉が他人の口から発せられたときに生じる斥力」に着目し、それを「ラズノグラーシエ(異和)」と呼び、ドストエフスキーの世界の主な動力になっていると洞察している[註1]。ミッツィの憤激は、筆者に、山城がドストエフスキー作品の核心に見出したものを想起させる。心の奥底に秘められた欲望=夢が、他人の眼差しを介して具現化=映像化されると、見る者は「肯定と否定の界面で引き裂かれ、強い異和と反撥を引き起こす」[註2]のだ。
 上記の見立てにおいて、このシーンの対になると思われるのは、"おさぼり日(skip day)"の様子を記録したフィルムが上映されるプロムナードのシーンと、それに続くサミーといじめっ子・ローガンの対話である。このフィルムにおいて、ビーチを躍動するローガンのアクションは、入念なカット割りとスローモーションによって捉えられ、"見たまんま"とは到底言えない審美的なイメージに収まっている。フィルムに記録された自身の姿に美しさを認めると同時にチープさをも指摘するローガンは、振り上げた拳をロッカーに叩きつけ、サミーにコケにされたと怒る仲間のチャド(オークス・フェグリー)を殴りつける。言語化できない葛藤を露わにするローガンに対し、サミーは容赦ない罵声を浴びせた上で、「君は最低の男だけど、5分間だけ友達になりたかった」と告げる。観客はこの言葉に、映画『地上最大のショウ』(1952)のクラッシュシーンをミニチュア模型で再現する幼い我が子に「世界をコントロールしようとする」意志を見出し、カメラを買い与えたミッツィの直観がこだましているのを聞き取る。と同時に、「世界はままならない」と呟くローガンの唐突な言葉が、サミーの意志に対するアンチテーゼとなっていることにも気付くだろう。しかし一体、サミーが制作したショートフィルムの何がローガンに葛藤をもたらしたというのだろうか。もしその映像が、単に彼の意に反したものだったとしたら、チャドがそうしたように、振り上げた拳はロッカーではなくサミーの顔に向けられただろうし、彼の心が「肯定と否定の界面」で引き裂かれることはなかっただろう。サミーのフィルムがローガンに憤激をもたらしたのは、弛まぬ努力によって鍛え上げた自身の肉体が躍動し、黄色い声援と好奇の視線を一身に集める光景が、彼の夢(理想)によく似ていたからではないか。とはいえ、ミッツィの場合とは異なり、ローガンはサミーのフィルムに自身の隠された欲望を観取したわけではない。プロムナードでの上映会において、ローガンはサミーの眼差しを通して自身の夢を見る。その時、彼の意識に一瞬、サミーの意識が入り込む。ローガン自身の眼差しと、醜悪ないじめっ子を見る内面化されたサミーの眼差しは決して一致しない。スクリーンに投影された自身の映像に懐疑(「これは本当の俺ではない」)を突きつけ、ローガンの心を引き裂く力は、このズレに存しているのではないか。観る者を引きつけると同時に突き放しもする、このシーンの謎めいた魅力は、サミーもローガンも2人の間で何が起こっているのか、それぞれの内面が何を捉えているのか、理解していない点にあるように思える。あらゆる出来事を意味付けようとするサミー青年が、2人の間で生じたこと、ローガンの内面に起こったことを理解するのは、ずっと後になってからに違いない。

[註1]山城むつみ.「ドストエフスキー」講談社、 2010年、8頁。
[註2]同上 190頁。

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