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May 14, 2023

『それでも私は生きていく』 ミア・ハンセン=ラブ
松田春樹

[ cinema ]

スクリーンショット 2023-05-14 1.15.35.png ある場所からある場所への移動が省略せずに描かれる。ミア・ハンセン=ラブの映画といえばまずそれである。日差しが反射したパリの街路。画面奥から歩いてくるサンドラ(レア・セドゥ)は路地を曲がり、ある外門の扉を開く。鮮やかな緑が生い茂る中庭を通って、アパートメントの階段を登る。その先にある緑色の扉。そこから展開される、扉の向こうにいる父ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)とのダイアローグによって、サンドラについての生活、つまり物語の様相が分かり始める。でもやっぱり、そのやり取りから見えてくることと同じくらいにファーストショットでの彼女の歩き方が、街の空気が、そこに差す光が、ただ物事の間の時間にとどまらず、妙に具体的であったように思える。サンドラの夫がもうすでに他界してしまっていることや、父の病が進行していることなどは後からわかることだが、ファーストショットでのサンドラの歩行が、この映画以前に拡がる彼女の人生をすでに語っているようにさえ見えるのだ。
 認知症の進行によって、室内で衰弱していくゲオルグとは対照的に、サンドラはまず歩く人として描かれる。『あの夏の子供たち』(2009)の父親が歩きながら電話で商談をしていたように、あるいは、『EDEN』(2014)の若者たちがクラブへの行き帰りの時間を決して無駄にはしなかったように、ミア・ハンセン=ラブの映画では何かをすることと移動することが切り離せない一続きの行為としてカメラに捉えられる。サンドラもまた、ゲオルグの介護、娘リンの世話、翻訳の仕事をそれぞれ別々の場所で行い、一日中ひっきりなしに動いている。(旧友クレマン(メルヴィル・プポー)との関係性は、まさしく喋りながら歩くことによって進展を見せるのだ)。しかし、そうした献身的な日々には様々な苦難が伴うことが徐々にわかり始める。子育てや仕事の苦労は言わずもがな、ゲオルグの介護問題は、彼の居場所を確保する物理的な困難さに加えて、サンドラの存在を視認できなくなっていく病状も悪化する。妻子持ちであるクレマンとは、愛が深まれば深まるほど倫理的な問題から逃れられなくなる。つまり、サンドラの献身性に反比例するかのように現実の苦難は大きくなるばかりであり、その残酷さは『あの夏の子供たち』の父親や『EDEN』の若者たちが辿った運命に似ている。
 けれど、サンドラはそうした人生の苦難を受容し、愛する人たちの元を何度でも訪問する。この映画が深刻な題材を扱いながらも、どこか軽やかな印象を受けるのは、彼女がその歩みを止めないことにある。ここで重要なのは、その先で何が起きたかよりも、彼女が歩み続けるときの変化を見逃さないことなのだ。サンドラがリンのアイスクリームを奪って食べるとき、彼女は幾分幸福に見えるが、それはショットが同時に捉えた夏の光が持つ固有の明るさによるものなのだ。反復されるショットの中で、そうした光や空気は少しずつ変化していき、我々はいつの間にか季節が移り変わっていることに気づかされる。青いスウェット姿でゲオルグの自宅を訪れた時にはまだ気づかなかったことが、ノースリーブのワンピースを着てその模様と髪の長さを彼に尋ねる時にはわかる。場所も光も季節も二人の状況も何もかもが違っているということ。そうした人物と空間の微細な変化こそが、繰り返される日常の中のたしかな差異として、彼女に「生きる」ことの実感を抱かせているのではないか。
 「本棚に並んだ本を見ると父を感じる」。サンドラがわざわざそんなことを言うのは、施設をたらい回しにされるゲオルグが日々衰弱していく姿を見ているからだろう。施設の風景はそこで働く人々の気高さとは無関係に色がなく、白壁に幽閉されたゲオルグもまた、空間と共に色褪せていく。画面を見てきた我々は、自室を奪われたゲオルグの変化をサンドラと同じように痛感し、我々がいかに人物の背景にあるものの豊かさによって映画を知覚していたのかを感じるのである。
 だからこの映画を振り返って思い出そうとしたときに、サンドラが背負う苦難の痛ましさよりも、もっと幸福な時間があっただろうと思えることは正しいことなのだ。彼女はたしかに様々な光や色と共に変化していた。そう確信することができるのだ。

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