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December 26, 2023

『枯れ葉』アキ・カウリスマキ
山田剛志

[ cinema ]

IMG_8321.JPG 車窓から光が差し込み、女の顔を照らす。女を乗せた路面電車はバス停を横切り、男の顔に影を走らせる。ニュアンスを欠いたふたつの顔の上で光と影が織りなすダンス。女と男は偶然と意志の相互作用によって出会いと別れを繰り返しながら、時には同一フレームに収まり、時には交互に映し出されることでスクリーンに豊かな陰影を刻み続ける。瞳で味わうメロドラマ。そんな言葉が脳裏をかすめる。
 白色蛍光灯の厚かましい光が隅々まで行き届いたスーパーマーケットで働く女(アンサ)は、開巻早々、理不尽な理由で仕事をクビになる。以降、映画は画面に闇を取り込むことで豊かさを獲得していくのだが、その端緒となる、スーパーの裏口から出てきたアンサが共に職を辞した同僚に別れを告げ、ひとり夜道を歩く後ろ姿を捉えたロングショットが素晴らしい。蛍光灯に照らされたアンサの行く手に広がる黒々とした闇が暗澹たる未来を予感させるからではなく、不寛容はびこる光のもとで生きることを拒み、闇に分け入ることも厭わない彼女の決然とした足取りが的確に捉えられているからだ。失業者となったアンサは帰宅後、買ってきた夕食を電子レンジで温めるも、ロシアによるウクライナ侵攻の被害を淡々と読み上げるラジオの声に食欲を失ったのか、手付かずのままゴミ箱に捨てる。その後、郵便物に目を通した彼女は意を決したように立ち上がると、家のブレーカーを切り、部屋は暗闇に覆われる。郵便物は電気料金の支払い通知だったのだろうか。ここでも、明るい画面に介入する闇が無機質な映像の連なりに生気を与えるが、それはもっぱら、暗闇に身を馴染ませることで新たな生を引き受けようとする彼女の意志を際立たせるからにほかならない。
 独自の陰影をともなって活写されるアンサの人生の断面が、ほぼ時期を同じくして職を失った男(ホラッパ)のそれとモンタージュされることで、スクリーンに映し出される光と影の運動はより繊細かつ大胆な様相を呈する。ひなびた酒場に再就職したアンサが仕事を終えてバス停に向かうと、酔い潰れたホラッパが身を横たえている。このシーンに先立つ場面で、すでに2人の熱のこもった視線の交錯を目にしている観客は、偶然の再会を機に両者の距離が縮まることを期待するが、闇を切り裂くようにして現れる路面電車のライトを浴びてもホラッパは目覚めない。この場面で女は一方的に男を見つめており、まなざしの不均衡は、その後、コーヒーカップにこっそり酒を注ぎ足す男を女が鏡越しに見るシーン、さらには、事故に遭い眠り続ける男を女が傍らで見守る終盤のシーンでも顕になるが、ここで注目したいのは、ホラッパの顔を通過する息をのむほど美しい車影の運動である。このショットは、随所で挿入される路面電車に揺られるアンサのバストショットと照応することで、無防備に顔を光にさらす男と、車窓から差し込む光を決然とした表情で受けとめる女のモードの差異を際立たせずにはおかない。
 不均衡をはらんだ2人の関係は、何度目かの再会を果たした後、スクリーンに映写されるジム・ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』(2019)の光をともに浴びることで、束の間、調和をみせるものの、女の連絡先が書かれた紙切れが風で吹き飛ばされるという偶然のいたずらによってはなればなれになった後、しばらくして映画館の入り口で再会し、アンサの家で夕食を共にするシーンに至って決定的に断絶する。なぜ決定的なのかというと、偶然によってではなく、過度な飲酒を咎める女と忠告を受け入れようとしない男が、それぞれの意志で別れを選択するからだ。女の家を飛び出した男は、文字どおり暗闇に消えていき、女は男が残した料理を皿ごとゴミ箱に突っ込む。暗い画面から明るい画面への鮮やかな転調もさることながら、画面奥へ遠ざかる男の足音と画面手前に接近する女の足音の連鎖が素晴らしい(本作は"耳で味わうメロドラマ"でもある)このシーンで、両者の人生は決定的にすれ違う。
 映画館入り口での再会がアンサのアクションを呼び水とする(彼女は先立つシーンで路上に落ちる大量の吸い殻に目をとめ、そこにホラッパの形跡を読みとっていた)のに対し、決定的に分岐した2人の人生が再び交わるきっかけは、ホラッパのアクションによってもたらされる。豪雨の夜、ホラッパはアンサに電話をかける。女を捉えたバストショットと男を捉えたバストショットが、カウリスマキ作品特有のタイトなリズムで交互に映し出される中、目を引くのは、2人の顔に落ちかかる雨滴の影である。窓辺に立つ2人の顔の上を光と影が干渉し合う一連の切り返しショットが観る者の情感を強かに揺さぶるのは、先に触れた車影のショットと照応するからであり、目の前にいない相手に向ける2人のまなざしのあり方が、カラオケバーでの出会いを反復しつつ、この映画がそれまで丁寧に描いてきた数々の不均衡を乗り越えるかたちで幸福な一致をみせるからにほかならない。
 女と男、それぞれの顔を舞台にした光と影の運動はこのシーンにおいてピークを迎えるように思えるが、この時点で映画はやっと終盤に差しかかったばかり。贅沢なことに、通話を終えた男が隣人からジャケットを貰い受け、女のもとへ向かおうとするやいなや、『東京暮色』(1957)の有馬稲子が線路に飛び込むシーンで聴いた記憶のあるけたたましいブレーキ音で抒情を断ち切り、すれ違いのメロドラマを継続するカウリスマキの演出を享受する時間はまだたっぷり残されている。

ユーロスペース他全国ロードショー中

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