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March 7, 2024

『落下の解剖学』ジュスティーヌ・トリエ
梅本健司

[ cinema ]

phonto.JPG  男の転落死は自殺なのか、事故なのか、妻による殺人なのか。『落下の解剖学』は事件のはじめから、妻に対して行われる裁判の終わりまでを見せつつ、真実を明かすことはない。法の下では完全に到達することができない真実よりも、夫婦や親子の関係に潜む不均衡や無理解こそをこの映画は描いていくのだ。しかし、だからといって事件の真相が重要でないわけではない。それぞれの関係はまさに事件の解釈をめぐって浮かび上がってくるからである。そこでの『落下の解剖学』の難点は、そうした作品の深層を占める真実から簡単に距離をとりすぎているところにある。どういうことか。
 この映画がスタイルの基調としている手持ちカメラによる撮影は、主人公サンドラに向けられるさまざまな視線──法廷にいる人々のまなざしやメディアのカメラ──をやがて請け負っていくことになるものの、それ以前の当の事件が起きる場面では、そのスタイルが足を引っ張っている。サンドラの夫が自宅の前で血を流して倒れている──カメラはそこに至る経緯を撮り逃すのだが、手持ちカメラによってカメラの背後の作為が強調されるために、撮られなかったことが恣意的な選択の結果に見えてしまう。駆け出す犬をフォローするという一応の理屈が与えられたズームと素早いパンは、死体を見つけてしまった偶然さよりも、物語のための必然さを感じさせるのだ。しかも特定の登場人物よりも揺れ動くカメラに気がとられてしまうために、サンドラや彼女を取材しに来ていた学生、視覚障がいを抱える息子、飼い犬の誰にも見る者は肩入れすることができず、視線の網を空間に張り巡らせることが十分にできない。だからこそ、網の目を縫うようにして起こった落下、その経緯を見逃してしまったという事件性がこの冒頭には決定的に欠けてしまっている。
 問題は裁判にもある。法廷でどのように真実を問うのか。事件の状況を整理することで浮かび上がる可能性を見せていくのか、目には見えない動機から浮かび上がる可能性を見せていくのか。動きを解釈させるのか、心理を解釈させるのかと言い換えることもできよう。この映画はどちらも採用しているのだが、結果的にどちらもうまくいっていない。まず前者の場合、裁判を通して、すでに見せられている事件の映像から新たな発見を観客にさせなくてはならないだけに、元より事件が映せていないこの映画にとっては分が悪い。タイトルの通り落下に関わる複数の可能性を検証するくだりがあるものの、大きく映画に関わらせることができないまま持て余してしまう。そうしたことからも次第にこの映画は後者の方に舵を切り、事件そのものではなくそれ以前の夫婦関係の軋轢をフラッシュバックも交えて見せていくことになる。振り返ればジュスティーヌ・トリエの好む方法はそのように複数の層の映像を織り交ぜていくことだったのだから、はじめからそちらに絞ればよかったのかもしれない。閉じられたプラヴェートな関係が裁判という公的な場を通していかに他者に開かれてしまうのか。
 サンドラが夫を殺す動機に繋がる証拠として音声テープが提出される。事件の前日、夫婦は激しい喧嘩をしており、夫によってそれが録音されていたのだった。法廷で音声が再生されるとフラッシュバックによって当時が直接見せられる。夫婦を演じるサンドラ・ヒュラーとサミュエル・サイスの徐々にヒートアップする演技には引き込まれるし、二人の会話はサンドラが夫を殺す動機にも、夫が自殺する動機にも解釈し得るという意味で、丹念に書かれている。しかしながら、このフラッシュバックが誰のものなのか、特定の誰かの想像なのか、その場にいる複数の人物たちが練り上げた想像なのかが判然としない。どちらにも見えるというよりも、むしろ誰もフラッシュバックに関わりきれていないように見えてしまう。精神分析という一対一の状況ならば、わざわざ示さなくてもある程度持ち主を自明のものにできたフラッシュバック(『愛欲のセラピー』)は、法廷という多人数の空間で、主要人物たちを除いた傍聴人たちの顔を十分に撮れていないために居場所を失うのである。さまざまな視線を手持ちカメラが請け負っていく、と書いたがじつのところ視線を向ける人々がどのような人物たちなのか、メディアのあり方も含めてこの映画では申し訳程度にしか描けていない。プラヴェートな関係が開かれていく先にある社会が立ち上がってこないのだ。サンドラに対する疑いのまなざしを我々にも投げかけるように(あなたたちが社会であると)映画が要請しており、そのために視線の持ち主たちの存在感をあえて薄めていると考えることもできるかもしれないが、だとしても観客に委ねすぎている。観客を映画の中に巻き込むことはそんなに容易いことではないはずだ。『落下の解剖学』においては、ジュスティーヌ・トリエがもっとも関心を注いできた分野でさえ困難が生じていると言わねばならない。
 母と父の間にある、同時に自分と両親との間にある隔たりを否応なく見出してしまった息子の最後の証言が、法廷劇を終わらせるだけの力を持たないのは、同じように声を聞く人々を捉え損なっているからにほかならない。今思えば父は自殺を仄めかすようなことを生前口にしていた、という息子の言葉は、真実かどうかは別としても、それが信じるにたるものとしてもっともらしく聞こえてこなくてはならないはずだ。ところがここでは逆にフラッシュバックが息子の回想以上のものに見えず、個人的な想像に場面が収斂してしまっている。サンドラ、もしくは夫に向けられた印象を変えるほどの説得力が息子の語りにはないのだ。たしかにサンドラが勝訴した瞬間を見せずに、自宅でそのニュースを知る息子にカメラを向けることで、サンドラが無罪を勝ちとった理由が彼の証言によるものでは必ずしもないことを映画は暗示してもいる。だが息子の証言の場面が弱いだけに、その多義性もむしろ後ろ向きの保険に思えてしまうのである。
 真実は知り得ない、どう見えるかが重要だ──ある人物のセリフによって示される作品のテーマはまさに演出の問題であり、映画にとって興味深い問いだ。しかし、その問い自体の答えもあやふやなままである。自分たちの関係はどう見えているのか、サンドラや息子の嘆きに誰も答えることができない。『落下の解剖学』は真実や心理を撮ることができなかったという無念さが画面からまったく感じられず、そのために演じるという主題も空転してしまう。最終的に真実を宙に吊るとしても、それをはなから捉えることを諦めているのなら、あるいは意図的にそれを撮らないように迂回しているのなら、そもそもこの152分にどれだけの意味があるのだろうか。