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February 19, 2025

『自由なファンシィ』筒井武文
黒岩幹子

[ cinema ]

差しfancymain.jpg誰かのことを「地に足がついた人」と評するとき、それは大抵誉め言葉として用いられる。同じく足を使った慣用句で「地に足をつける」の対義語となるのは「浮足立つ」だが、地に足がついた人でも浮足立つことはあるわけで、たとえば恋愛が成就して天にも昇る気持ちになれば誰もが浮足立つはずだ。そして、浮足立って、地に足がつかなくなることで味わえる感情や見えてくるものもあるはずで、地に足がついてないこともそう悪いことばかりではないように思える。


いったい何の話をしたいのかといえば、『自由なファンシィ』に登場する同棲中のカップルのことだ。同棲中といっても、ふたりは別の部屋で寝起きをしている。1LDKのリビングの隅っこで寝ている男・田上さん(岩瀬亮)は、居室を使っている女・ゆかり(松平英子)に部屋への立ち入りを禁じられているようである。それは田上さんがゆかりの外出を見計らって居室に入る際に、その入り口に張られた赤い糸が映し出されることによって察せられる。
これだけを見れば、まるで田上さんがゆかりの家に居候しているかのようだが、物語が進むうちに、もともとこのマンションで暮らしていたのは田上さんで、束縛しないことを条件にゆかりに同居を申し出たことが判明する。マンションのベランダに隣人の男を泊まらせる女性を描いた筒井監督の前作『孤独な惑星』(2010)において、ベランダと居室を隔てる掃き出し窓を開けるかどうかの決定権が居住者の女性のほうにあったのに対し、本作では居室とリビングを隔てるドアを開けるかどうか、そして一緒に暮らし続けるかどうかの決定権は"居候"であるはずのゆかりが持っているのだ。
ゆえに田上さんはゆかりを引き留めるためにプロポーズして、自分の家族にも紹介しようとする。学校の講師をしているので収入も安定しているだろう。まさに「地に足がついた」生き方をしようとしている。にもかかわらず、田上さんは常に「浮足立って」いる。ゆかりを尾行するときの落ち着きのなさ、ゆかりが部屋から姿を消したときの慌てっぷり、その田上さんの浮足立ち様は足がもつれるような走り方や頻繁に震える手からまざまざと見て取ることができる。そうした田上さんの動作をより目立たせ、田上さんの動作によって引き立ちもするのが、上半身の軸がぶれないまますーっと滑るように歩き走り踊るゆかりの所作だ。
小説家のアシスタント、日本舞踊の稽古、「自由なファンシィ」という芝居の稽古と一日で様々なことをこなし、何が"本業"であるかも判然としないゆかりだが、彼女がやることには不思議と「板」を思わせるものが多い。芝居や日本舞踊は板に立つことだし、小説家と興じるチェスも板の上で行うものだ。日本舞踊を踊る彼女の姿から始まるこの映画は、真っすぐと板の上に立つ=地に足をつけて立つ彼女を映し出すためにあるといっても過言ではないだろう。しかし、ゆかりのことを「地に足がついた人」と評する人は誰もいないのではないか(田上さんは彼女がふらっといなくなってしまうことを恐れているし、小説家からも「適当にふらふらしていると~」云々といった忠告を受けていたはず)。田上さんからプロポーズされたゆかりは、日本舞踊の稽古で踊りが乱れ、芝居の稽古も無断で休み、田上さんの家を出ていく。
一旦、小説家に同行して「隠れ家」の意味を持つエルミタージュ美術館などをめぐる旅に出ることに決めたらしいゆかりだったが、出発前に行われた舞台「自由なファンシィ」の本番において物語は大きく転換する。偶然舞台を観に来た田上さんの突撃によってコスチューム・プレイである「自由なファンシィ」の扉が開かれ、演劇の世界が現実の世界にあふれ出してくるその後の展開については、ぜひ劇場で目の当たりにしてほしいので詳細は省くが、田上さんが「自由なファンシィ」の世界に闖入し、ゆかりが「ファンシィさん」として現実の世界に飛び出すことによって、ふたりは初めてお互いと向き合う。そして、鏡像関係ともいえる相手と向かい合うことによって自分と向き合うことになるだろう。


田上さんの家のゆかりの部屋にはジャック・リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)のポスターが貼られている。映画内演劇、『アウト・ワン』(1971)にも登場した合わせ鏡を使ったショットなど、リヴェットへのオマージュが随所に感じられる本作だが、ゆかりを見ていると、とりわけ『セリーヌとジュリー』が想起される。ただ、『セリーヌとジュリー』がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』から着想されたのに対し、本作にはチェスや鏡台、日本舞踊の演目「藤娘」(絵の中から抜け出した藤を担いだ娘=藤の精が恋心を踊る)など、その続編である『鏡の国のアリス』を連想させる要素が多い。『鏡の国のアリス』は、鏡の中に入り込んだアリスがチェスの枡目とルールにのっとって構成された世界で、自ら駒となって女王になることを目指す物語だが、ゆかりも枡目を行き来しながら(様々な経験をしながら)自らを成長させようとしているのかもしれない。
だが、ここで無視できないのは、ゆかりは決してルールに沿って行動しないということだ。「勝てそうになくてつまらない」という理由でチェスの駒をぐちゃぐちゃにし、芝居の稽古で「役者は死んでも芝居を止めちゃだめだ」と演出家に叱られても黙ったまま台詞を口にせず、人のものを勝手に拝借してしまう。ルールに従って動かないと女王にはなれず、いつまでも枡目を行ったり来たり彷徨い続けることになるかもしれないけれど、自分が進みたいように進む。板の上を自分の足で一歩一歩、歩き続ける。きっとそれこそが、彼女にとっては「地に足のついた」生き方なのだ。その軽やかで逞しい歩みに私は励まされた。

・2025年2月22日(土) 、渋谷ユーロスペースにて公開
・2月21日(金)~3月6日(土)、Strangerにて「筒井武文 Retrospective 映画への欲望」も開催


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