「映画『観測者たち』のための音楽劇「観測者たち」」@ムリウイ OKプロジェクト
新谷和輝
[ theater ]
はじめに床に座った観測者(田中陸)が、床のコンクリートの窪みをいじっていた。その日は雨が降って湿った生っぽい匂いが漂い、来場者の多くは植物を連れていたから、会場のムリウイには雑多な触感が立ち込めていた。こちらの感覚も普段より少し鋭敏になって、観測者の裸足がコンクリートに触れるヒヤリとした感覚が伝わるようだった。それでも観測者がしばらくいじっていた窪みは彼がそうしていなければ私は気づかなかっただろうし、たとえ目に入ったとしても取るに足りないものとして意識の外に置いていただろう。「映画『観測者たち』のための音楽劇「観測者たち」」のなかで私が感じていたのは、この窪みのように私の外にある無数の小さなものたちの不確かな感触だった。
上映後のトークで話されていたように、観測者とは三脚に据えられた無人のカメラのような存在で、定点観測のようにその場(公園という設定)にとどまり周囲の光景を描写していく。NHKの「ドキュメント72時間」をよりフラットに、時空の伸び縮みを自由にした試みか、もしくはデヴィッド・ロウリー『A GHOST STORY』に似ているかもしれない。観測者は自らを透明にして、いま見ているものだけでなくそこに昔あったものや未来に出現する風景も説明する。
「みるというのは、思い出すことらしい」と観測者は言っていた。何かを見るとき、その見る主体のなかに照らし出されるイメージはそのとき見ているものだけではなく、以前見た似ているものだったり、まったく関係のないものだったり、当座の時制や自分の意思から外れた何かが伴ってくる。この音楽劇に浸っている間、観測者の動作や音楽を気にしながらも私は全然関係のない個人的なことを思い出したり、ムリウイの壁の木目を見たりするときもあった。要するに気が散っていたのだが、それはヴァルター・ベンヤミンがかつて映画館の観客たちについて述べた「気散じ」的な体験だった。作品に集中して深く没入するのではなく、自分のなかに作品を取り込み別の何かを想起していく。演者と音楽の輪郭は終始くっきりしていても、それらは物語世界を閉ざさず、開かれた公園のような環境をつくっていた。
観測とは一方的な視線の投げかけであり、距離をとって対象を測りつづける行為だ。目の前で繰り広げられる光景を定位置からひたすら受け止め、それを解釈しようとする観客も観測者たちといえる。しかし、観測者が捕捉できない、見ることのできない、思い出すことのできないものたちはどうなるのだろうか。柴崎友香はかつて以下のように書いていた。「誰かが目撃しなかったり気づかなかったりしたら、過去のそのできごとは存在しないのと同じなのか、それとも、誰も知らなくてもやっぱり存在したことは消えないのか」(「ハルツームにわたしはいない」『週末カミング』角川文庫)。この音楽劇では観測者の前であらゆる出来事が瞬いて過ぎていくが、そこからこぼれ落ちていくものも膨大にあることが想像される。誰にも知られないけれど在る、そのおぼろげなイメージにこの劇は触れようとしている。それと同時に、世界で自分だけにしか見えないし思い出せないものがあることも、隣の別の観測者もそうした孤独な観測を行っていることも、この劇は言っている。
椅子に取り残された黄色いタオルに、ライトに照らされた植物の影が映ったとき、小さな映画がふいに立ち上がったようだった。目の前にある現実の植物が、二次的なイメージとなって共有される過程が新鮮に感じられた。これはカメラ・オブスクラや幻燈など映画前史のメディア経験の喜びに近い。世界では、このようにそこらじゅうにある小さなものたちが瞬間的にイメージとなっていく。イメージはつねに生成されつづけている。影絵遊びなど、劇中では他にも至るところに映画的イメージを見出そうとする意識がつねにあった。私が見逃したイメージもたくさんあっただろう。この文章はひとつの観測報告にすぎず、他の観測者たちにはそれぞれちがうものが見えていたはずだ。そうした想像のイメージの集合体が、OKプロジェクトの周囲でこれからも育っていくのだと思う。
映画『観測者たち』のための音楽劇「観測者たち」|ムリウイ