映画について書く:現代作家たちへのインタビュー Écrire sur l'écran 第一回 夜から始まる物語――メイリス・ド・ケランガル氏へのインタビュー part3
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ーーやっぱり子どもの頃から映画もたくさん見ていたのですか。
子どもの頃は、たくさん映画を観ましたね。西部劇をたくさん、メロドラマや歴史大作も。特に好きなのは70年代のアメリカ映画です──チミノ、カサヴェテス、コッポラ、モンテ・ヘルマン。そして80年代ではシドニー・ルメットですね。
ーーお気に入りの作品を聞かれたら何と答えますか。
『まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響』というポール・ニューマンの映画がありますが、『朝が来る前に』の冒頭でも引用しました。これは大好きな映画です。
あるいは、『旅立ちの時』ですね。私はルメットの映画が好きなんです。最近観て感動したのは、おそらくミケランジェロ・フランマルティーノの『洞窟』でしょうか。洞窟探検の映画です。
ーー『橋の誕生』は西部劇っぽいですよね?
そうですね、『橋の誕生』には映画、とりわけ西部劇との強い関わりがあります。特にハワード・ホークスの『赤い河』との関わりです。あの映画が物語の構造を形づくっています。まるでワイドショットで撮られたテクニカラーの小説のようで、風景そのものが登場人物の運命を抱えているのです。
『東へ逃げる』は、私には手持ちカメラで撮影されたモノクロのスリラーのように思えますし、『引き波の日』はヌーヴェルヴァーグ的です。私の本はそれぞれ、必ず何らかの映画と結びついています。とりわけ『橋の誕生』は、ジョン・フォードの映画、特に『リバティ・バランスを射った男』と強く結びつけられています。というのも、西部劇というのは建国神話の映画であって、どこかに人々がやって来て、そこに法を、政治を、社会を築き上げていく。つまり、領土を手に入れ、それを整えていくという物語で、まさにそれこそが『橋の誕生』で私が描いたことなのです。
ーー『橋の誕生』について、ひとつお聞きしたいのは「舞台」の問題です。あなたの小説は常に、特定の場所と時代にしっかりと根ざしています。現実の地理から完全に切り離された、まったく想像上の場所を舞台にした小説を書くことを、これまでに考えたことはありますか?
いいえ、そう考えたことはありません。私の小説に出てくる空間は、フィクションのために想像されたものです。舞台となる場所はたいてい現実に存在しますが、そこに想像上のポケットを穿つんです。たとえば『コルニッシュ・ケネディ』に登場する架空の〈プレート〉のように。逆のやり方も可能だと思います。大きな虚構の構築物を設定して、そのなかに現実の断片を挿れ込むような方法です。
ーーあなたは以前、「架空の土地をインストールする」とおっしゃったことがありますね。
『引き波の日』は都市を題材にした小説です。実在する都市ル・アーヴルを舞台にしていて、その街の歴史など、現実的でドキュメンタリー的な下地が重要になっています。とはいえ、本の中に現れるこの街は、小説のために私が再創造したものです。だから正確ではありません。たとえばこの小説には〈ル・シャネル〉という映画館が登場しますが、それは架空のもので、私がル・アーヴルで知っていた2つの映画館を圧縮したものです。こうした仕掛けは、現実の場所を揺さぶるための方法でもあります。小説は、現実の場所のリアリティを攪乱するのです。
ーーあなたの小説には専門用語がたくさん出てきます。たとえば『黒いスーツケース』では、DNAに関する非常に精密な語彙が使われています。これは日頃の読書のなかで自然に取り入れているのでしょうか? それとも、特定のテーマに応じてリサーチをしたり、実際に調査やインタビューなどをおこなったりしているのですか?
あの本で、世界を横断するひとつのトランクを書きたいと思っていました。そして詩的なレベルでは、それを棺やブラックボックス、ある存在の記憶にたとえていました。そこには「メッセンジャー」という観念がありました。私はmRNAのことを思い浮かべ、それが何なのか理解する必要を感じ、調べました。
『橋の誕生』は、私にとって初めて本格的な調査を必要とした本でした。コンクリートの語彙、土木建築、工事現場の組織、機械について学びました。もっとも、それはまず詩的な身振りなのです。この正確さは詩的な意図に基づいており、探究であり、異質なものや多様さ、ニュアンスとの接触なのです。そうすることで私は世界のなかへ進み入り、その一部になる。私の仕事の中心にある「名付ける」という行為は、やがて政治的な課題ともなっていきました。
『手の届く世界(Un monde à portée de main)』では、色やマチエール、大理石、木材、石、鉱物についての語彙に強い関心を持ちました。文学と知の関係こそがこのテクストの核心なのです。そして政治的な課題は、眠ってしまった語彙、文学に顧みられることの少ない語彙、文学にはふさわしくないとみなされてきた語彙を再び呼び覚ますことでした。私はそれを言葉のなかで蘇らせたかったのです。
ーー語彙だけではなく、あなたの文体ついても教えてください。あなたの文体は、ひとつの政治的選択であるように感じられます。あなたの小説は、自由直接話法の使用が特徴的です。この語り方によって、どのような効果や意図を追求されているのでしょうか?
もちろん、書くことは政治的な行為です。問題は、それをどう扱うか、この道具で何をするか、ということです。私が自由直接話法を使い始め、テクストの中に口語性を取り込んだときの狙いは、秩序や規範に従うことではなく、語りのなかに水平な地平を取り戻すことにありました。そこでは要素どうしが互いに響き合い、ときに混ざり合い、汚染し合うかもしれない。けれども階層は存在せず、すべてが私の注意の対象であり、すべてが私の関心を引き、すべてが世界を形づくるのです。主役と脇役といった区別はもはや存在しません。これは言説の秩序をずらし、あらゆる既存の言説の秩序から切り離すための方法でもあったのです。
ーーあなたはあらゆる事物、細部を描こうとしています。
ええ。細部というのは政治的にとても重要なんです。細部こそが均質化の傾向に抗い、逆らって書くことを可能にしてくれるのです。この点については、「ダンサー、潜水者、記述者」という題で論考を書きました。すでに場所の問題について触れましたが、この書き方の選択は、場所は物語を配置する背景ではなく、物語の力そのものとして捉えることだからです。
ーーフランスでは、エドゥアール・ルイ、アブデッラー・ターイア、ローラン・モーヴィニエといった他の現代作家たちも、自由直接話法を用いています。彼らとの間にある種の親近感や共鳴のようなものを意識されていますか?
ええ、もちろん彼らの仕事はよく知っていますし、関心もあります。実際に読んでもいます。政治的な問いは私たちに共通していますが、それを表現する仕方は異なります。私は、小説そのものが政治的立場を取るのだと感じています。なぜなら小説は公共空間のなかを流通するもので、そこには必然的に政治的な力が宿るからです。著者としての私の立場を知ってもらうことは重要だと思いますが、私は演説のかたちからは距離を取っています。あくまで私の道具は小説です。フィクションは表象の芸術であり、人生を見つめるためのレンズなのです。
ーー文学と政治の関係について話してきましたので、フェミニズムについてもお伺いしたいと思います。あなたの小説に登場する女性たちは、自立していて、自分の意見を持ち、インテリ風でもありますよね。けれど同時に、社会の中で女性が受ける暴力や差別についても描いていらっしゃいます。たとえば「ルージュ(« Rouge »)」では、ヒロインがセクシャルハラスメントを受けますし、「燃ゆるマリリン (« Feu Marilyn»)」では、マリリン・モンローが男性たちから性的搾取を受けてきたことへの批判が描かれています。このような表象について、また、文学におけるフェミニズムについて、あなたはどのようにお考えですか?
私は書くことを、最初から、解放のための領域として考えていました。書くという行為そのものが、たとえ私の本が同時に非時代的であろうとしていても──それこそが私にとってはまさに同時代的であるということなのですが──フェミニズム的な立場を含んでいるのです。私の小説に登場する女性たちは、行動を通じて解放のかたちを探していきます。彼女たちは行動する女性です。屋外にいて、現場にいて、建設現場でコンクリート工場を動かしている。病院で働いている。洞窟の壁画を描き直している。
『引き波の日』のヒロインは、より内省的ではありますが、彼女もまた世界や他者との関係を、吹き替え女優という仕事を通じて築いています。彼女は人の声を聞き、その物語を響かせ、伝えるのです。そして物語の冒頭では、誰も片付けていない朝食のテーブルに気づき、そこで家庭生活について二、三言語る。私は家庭生活にも強く関心を持っています。
『橋の誕生』では、女性を家のなかから、台所や子どもから解き放ち、グローバルな建設現場のただなかに置きたいと考えました。そこで女性を政治や歴史、経済、世界の動向と全面的に対峙させたのです。それは強いフェミニズム的な身振りでした。私のヒロインたちはフェミニストなのです。けれども、私にとっていちばん大切なのは社会的なまなざしです。私の小説はつねに社会を見る視線を持っているのです。
ーー最後に、現在の情勢でもっとも政治的になった『東へ逃げる』について伺いたいと思います。この作品はロシアを舞台にしていますが、そのロシアは今もなお戦争のさなかにあります。2025年の読者にとって、この本を読む意味はどのようなものだと思われますか?
この本は2つのことを語っていると思います。ひとつは、暴力や戦争との関係を照らし出すことです。「我らが母なる戦争」というロシアのことわざがありますね。そしてもうひとつは、ロシア兵の姿を見せることです。アリオーチャは、今日ロシアの周縁の地方から徴兵され、ウクライナの前線に送られている20歳前後の若者たちと、そう遠くない存在です。同時に彼は文学的な人物でもあり、ロシア文学の系譜に属する登場人物でもあります。ドストエフスキーを思い起こさせるような登場人物です。
この日本語の翻訳が初版からほぼ10年を経た今に実現したら、私は強い意味を感じます。というのも、この本は歴史と重なり合い、いまやウクライナでの戦争と切り離せないものになったからです。もっとも、これはウクライナの戦争を描いた本ではありません。あくまで逃亡中の若い兵士とひとりの女性がシベリア鉄道のなかで出会う物語です。その出会いは希望や共感、そして他者を認めることを語っているのです。
2024年12月、パリ11区の小さな書店L'Utopieで初めて出会ったとき、これまで彼女の作品を愛読してきたことを伝えると、ケランガル氏は最新作の最後のページに迷うことなく自らのメールアドレスを書き込んでくれた。その後、お礼のメールをやり取りするうちに、2025年6月末にLes Petites Indécisesでお茶をしようと誘ってくれ、このインタビューは実現した。
京都滞在の夢を語り、谷崎や三島を愛読してきた彼女にお薦めの一冊を尋ねられ、金井美恵子「水の色」のフランス語訳コピーを手渡した。ケランガル氏は、自身の文体にも匹敵する一文の長さに感嘆していた。彼女の作品が一日も早く日本語に翻訳され、そして日本滞在が現実のものとなることを心から願っている。
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