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November 18, 2025

《第38回東京国際映画祭》『死のキッチン』ペンエーグ・ラッタナルアーン
浅井美咲

[ cinema ]

Main_Morte_Cuinca@185 Films.jpg 望まぬ婚前交渉によってタイ地方のムスリム社会から追放され、一人都会に出てきた女性サオ(ベラ・ブンセーン)。勤め先のバンコクの高級レストランに、昔自分をレイプした男コーン(クリット・シープームセート)がやってくる。サオは自分のことを覚えていなかったコーンに近づき、復讐を企てる。その復讐とは、自らの手料理で彼を死に貶めることだった。コーンと同居するようになったサオは、料理教室に通って栄養学を習得し、美味しい料理を提供し続ける。しかし、その料理とは栄養学において本来タブーとされる食材の組み合わせを体現しており、次第にコーンの健康状態が悪化するようにつくられたものだった。そして彼は、奇しくも彼女の手料理によって身体を壊し、若くして衰弱の一途を辿っていく。
 広いテーブルに並ぶ、色鮮やかなタイ料理。コーンには毎食大皿料理が何皿も用意され、豪華な料理を真上の位置から撮影してみたり、横からクロースアップで撮影してみたり、まるでその美味しさを観客に見せつけるかのように、サオのつくった手料理は手を替え、品を替え映し出されていく。とはいえ、料理の油が艶やかに光り、観客の腹を空かせることには成功しているものの、果たしてこれらのカットがこの復讐劇に鮮やかさをもたらしているのかどうかは悩ましい。
 料理というのは手間がかかる作業だ。献立を考え、食材を調達し、調理し、振る舞った後には洗い物が残っている。しかもサオは自分でつくった料理に一切手をつけず、隣でコーンが食事する様子を微笑みながら見つめているだけである。毎日このルーティーンをコーンのためだけに10年以上行うことを考えると、途方もない労力がかかっていることがわかるだろう。しかし、料理をつくって相手に食べさせてやるということは、長い時間をかけて殺す目的とは裏腹に、その日その日の生命を維持してやるということでもある。もしかしたら、栄養学上タブーな組み合わせをあえて選択して献立を決め、過剰なまでにたくさんの料理を食べさせて死に至らしめることへの良心の呵責が生まれた日もあったかもしれない。それは実際に、コーンが倒れた時に提供した病院食のような質素な食事を与える場面からも窺える(コーンが質素な食事を食べることを拒否したことで、サオは再び豪華な食事を振る舞うようになった)。
 このようにサオの殺人計画には、途方もない手間と、幾度もの心の揺れ動きがあったことを想像する。だとしたら、自らの心と身体を傷つけた憎い相手に料理を食べさせることで殺害しようとするサオの感情の機微は、美味しそうな料理そのものよりも、料理をつくっている時間や、その後に一人で洗い物をしたりする時間に現れるはずなのではないか。やがてサオは料理の腕前を活かし、次々とレストランを開く。そこで自身が鉄鍋を振る様子も映されるが、客に出す料理をつくっている様子と、コーンに出す料理をつくっている様子はまるで変わらない。コーンへの憎しみを考えると同じはずはないのだが、カメラはその表情を捉えようとしないのである。ここに、復讐劇としての物足りなさを感じてしまう。
 また本作がある種のサスペンスとして成り立っているように見えるのは、コーンの友人(ノパチャイ・チャイヤナーム)の存在にある。勘が働いたのか、彼はまだ元気だった頃のコーンが開いたホームパーティでサオのつくった料理に口をつけなかった人物だ。サオの行動を不審に感じた友人は、サオとコーンが住む家に侵入し、彼女が栄養学に基づいたレシピやメモを書き溜めたタブレットを盗む。そこでサオがコーンにもたらした事の真相を知ることになるのである。やがて友人はサオが家から離れている隙をついて、衰弱によりベッドから動けなくなったコーンを連れ去る。そのことでサオは食事が摂れなくなるほど衰弱するが、友人に連れ去られたはずのコーンは、自らの足で森を駆け抜け、サオの元へ帰ってくるのだった。そしてサオの料理をたらふく食べた翌朝、死を迎える。コーンはすでにサオの料理の中毒になっていたのだ。
 こうしてサオは最終的にコーンを死に貶めたわけだが、彼が去った後のサオの衰弱から見てとれるのは、隠しきれないコーンへの執着や愛情そのものである。おそらく彼女の中で、彼への憎しみと愛憎がは混ざり合い、自身の中に複雑な感情の渦が生まれたのだろう。十数年料理を与えることで相手に死を至らしめる行為が突発的な殺人と異なるのは、二人が日常生活を共に過ごすことで、殺意ではない感情が芽生えている点にある。生活の中で必ず感情は移り変わり、サオがコーンに近づいた時の殺意もきっとそのままではなかったのだろう。つまり当初抱いていたはずの復讐心は、彼女の中で形を変えたのだ。ここに、本作が復讐劇としては惜しくとも、愛憎劇として引き込まれる理由がある。


第38回東京国際映画祭「コンペティション部門」にて上映