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April 8, 2026

「エアポケット」に住む
「丹生谷貴志コレクション」(月曜社)刊行記念講演
2026年2月14日(土)神戸映画資料館
山田剛志

[ book , talk ]

2025年末、孤高の批評家による約40年の営為を集成した『丹生谷貴志コレクション』全三巻が刊行され、翌2026年2月、その刊行記念講演が神戸映画資料館で行われた。川崎から電車を乗り継いで神戸まで丹生谷さんの講演を訊きに行く。年末年始、新幹線でも喫茶店でも、風呂場でもトイレでも読み耽ったコレクション第Ⅰ巻と第II巻のカバーは、すでにかなり汚れてしまっている。思い入れの深さでいえば、就職もせずに毎日無為に過ごしていた震災のあった年に読んだ「〈真理〉への勇気」に勝るものはないのだが、こちらはとっくにカバーを失い、灰色の本体をむき出しにしており、著者にサインをいただくにはいかにも不相応...と、デートの服装に悩むみたいにぎりぎりまで思案した末、比較的きれいなコレクション第Ⅲ巻を鞄に入れ、あたふたと家を出た。


 講演に先がけて、ダニエル・シュミット『書かれた顔』(1995)のフィルム上映が行われる。初めて訪れる映画館ということもあり、着席後、気持ちが落ち着かずあたりをキョロキョロ見まわしていると、丹生谷さんが姿を見せた。二人の男性――のちに、そのお二人が丹生谷さんのかつての教え子で編集者の前田晃一氏、そしてコレクションの企画・編集を担当された阿部晴政氏だとわかるのだが――と並んで前方の席に腰掛けられた丹生谷さんもまた、どこか落ち着かない様子で視線を巡らせている。「快楽のために見る対象を選ぶ者ではなくて、見知る対象すべてが快楽の対象であるような者」。上映を待ちきれない子どものようなソワソワした後ろ姿を眺めながら思い浮かべたのは、丹生谷さんが訳したジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』の一節だった。
 上映後、休憩を挟み、前田氏の司会のもと、丹生谷さんの講演が始まった。なぜ『書かれた顔』なのか。生前親交のあった故・青山真治監督が演出助手を務めたからという以外、「特に深い理由はない」としながらも、話は迂回を重ねていく。梨園の外から歌舞伎の世界に入った坂東玉三郎に関するエピソード、「予告編しか見ていない」という映画『国宝』への短い言及(「踊りとドラマを絡めようとする..."手"が見える映画が嫌いなんです」)、「死体」への奇妙な執着を書き続けた川端康成と映画との関係。これらの話題を一巡りして、話は『書かれた顔』に回帰した...と思いきや、ふたたび飛躍を孕んだ迂回を重ねていく。「それは置いといて」という接続語(そのバリアントに「これは冗談です」がある)が異常な頻度で反復される丹生谷さんの語りは、本講演の鍵となる概念であり、丹生谷批評のアルファでありオメガでもある「エアポケット」を形成し、映画、文学、美術、音楽、哲学とジャンルを横断して紡がれる思考の渦に聴衆を巻き込んでいく。以下はその要約である。できることなら「始まりも終わりもなく、中心もなく末梢もなく、幹もなく枝葉もない」リゾームのような語りをそっくりそのまま再現したいところだが、これまで丹生谷さんの批評に馴染んでこなかった方に、その雰囲気だけでも味わってもらうことをささやかなミッションとする本稿では、ところどころ著作を参照しながら言葉を補い、文脈を整え、映画に関する話題を中心に読みやすく再構成した。また、随所で私見も交えている。したがって、この小さくまとまった不完全なレポートの文責はすべて筆者にある。

 1899年生まれの川端康成にとって映画は、「仮死状態のものが動いている」というイメージで受容されていたのではないか、と丹生谷さんは語る。実際、当時の映画はカメラの性能が十分ではなく、顔の陰影を強調するために役者の唇に鉄のサビを塗り、さらに歌舞伎役者のように顔全体に白粉を厚く施していた。そのため当時の観客は、スクリーンに映る人物を、生きた人間というよりも、どこか死体に近い存在として眺めていたはずである。そしてこの感覚は、1941年生まれのダニエル・シュミットの世代にも通じている。『書かれた顔』の撮影時、シュミットの眼には日本の歌舞伎が、まるで死体が踊っているかのように見えていたのではないか。無論、現代においても「死」を主題とする映画はごまんとある。しかし、ある世代にとって、「死」は単なる物語上の題材ではなく、映画そのものと存在論的に結びついたものだった。「仮死状態のものが動いている」という手触りは、『書かれた顔』のみならず、『ヘカテ』(1982)をはじめとするダニエル・シュミットの他作品にも見出せると語った丹生谷さんは、さらに、「映画には必ずしも人間がいなくてもよいのかもしれない」とも述べる。少なくともある世代まで、映画は魂を欠いた肉体が跳梁跋扈する場として経験されていたのだから。
 続いて「世代論というのは胡散くさいものだと思っている。完全にフィクションです」という前口上のあと、1954年生まれの丹生谷さんが属する1950年代半ば生まれの人間が持つ、ある感覚について話は転がっていく。1960年代は、世界各国で革命の気運が高まり、「新しさ」というものが強いリアリティを持っていた。しかし、1968年前後、学生運動が高揚していた時期、小学生から中学生になったばかりの丹生谷さんたちの世代が「いざそれに身近に出会おうとする頃にはすでにそれは終わりに近い腐臭を漂わせていた」(『コレクション第Ⅰ巻 軽いまえがき』)。常にワンテンポ遅れている。そのズレが生み出す感覚を「エアポケット」と名指した丹生谷さんは、ある限定された世代特有の感覚を言い表したこの言葉を、映画が時折露呈させる裂け目を指し示す際にも用いる。
 映画が時折露呈させる裂け目とは何か。丹生谷さんは、同世代の著名人の代表として松任谷由実と共に1955年生まれの黒沢清監督の名前を挙げ、かつて教授を務めていた神戸市外国語大学に黒沢を招いた際のエピソードを紹介する。黒沢はフェデリコ・フェリーニ『サテリコン』(1969)のクリップを上映し、画面を埋め尽くす群衆の一人が、カメラのレンズをじっと見つめている瞬間に着目する。注意しないと見逃してしまうような細部である。丹生谷さんは、その話を聞いた時「いかにも黒沢さんらしい」と思うと同時に、こうした細部に引っ掛かりを覚えること自体が「自分たちの世代らしい感覚でもあると思った」と述べる。そして、エアポケットをめぐる問いを、世界にカメラを向けるすべての者に開いていく。
 「常にエアポケットだらけ、陥没している場所だらけ」の映画の画面は、『サテリコン』における群衆の中の一人が不意にカメラを覗き込んでしまう瞬間のように、時折その裂け目を露呈させる。一般的な映画は、それが露呈しないように細心の注意を払ってきた。また、CG以降の映画は、「映ってはまずいもの」を人工的に排除できる。一方でカメラの本質は、作り手の意思とは無関係に余計なものまで映してしまうところにある。映ってはまずいもの=エアポケットをいかに隠蔽するか、あるいはいかにそれが「映るべきものだった」と観客に思わせるか。それを受け入れるようにして映画を撮るのか、それとも見なかったことにするのか。そこに倫理がある。すなわち「映画監督にとって最大の問題は"映ってしまったものをどう扱うか"にある」のだ。
 この日の丹生谷さんは、「フィクションである」という前置きのもと、1950年代半ば生まれの人間が持つ共通感覚を言い表し、映画を破綻に晒しかねない陥没地帯を指し示しもする「エアポケット」という概念を、書き手としての自己のコアを指し示すものとしても使われた。自分の本を持たず、「注文がなければ書かない」と語る丹生谷さんにとって、ではなぜ書くのか? という問いに対する答えもまた、「エアポケットの感じ......」としか言いようがないのである。「僕はそこに住んでいるみたいなものなんです」そして「そのこと自体が、何かを書くきっかけにはなっているのかもしれない」。
 講演後半では、大学時代のエピソードへと移り、丹生谷さんが「恩師」と呼ぶ2007年に亡くなった美術史家・若桑みどりとの交流(「丹生谷、お前は何もないんだから、原稿を注文されたら絶対に断るな」)や、最初の著書『光の国―あるいはvoyage en vain』の驚くべき執筆秘話(「途中でページ数が足りなくなる。じゃあ引用で埋めよう、という具合で、実にいい加減なものです。当時はコンピュータもないから、引用するにしてもコピーを取って、ハサミで切り、それを原稿に貼りつけていく......」)が明かされた。これらについては、コレクション第三巻の「あとがきと終わらないドタバタの余談」、および追悼文「みどりさん――追悼 若桑みどり」に詳しいので、ぜひ各自の目で確かめてほしい。残りの紙幅では、主に二つ、丹生谷さんの「読み方」と「書き方」に関するエピソードを紹介したい。
 もともと「絵描きになりたかった」と語り、自身を「視覚的な人間」と規定する丹生谷さんは、「フーコーでもドゥルーズでも、絵として想像できない文章はわからない」と述べると、「デリダが苦手なのは、絵として想像できないから......いや、想像する気がないのかも」といった"冗談"もこぼされた。すかさず「絵として想像するというのは、描写が見えるということですか?」と問いかける司会の前田氏。丹生谷さん曰く、想像するのは、描写というよりもっと抽象的なもの、たとえば「『2001年宇宙の旅』のスターゲートみたいなもの」らしい。
 講演の最後に設けられた質疑応答では、せっかくなので「文章を書くとき、どのようなイメージを思い浮かべているのか。設計図のようなものを用意するのか」という質問をしてみた。それに対して丹生谷さんは、「設計図は作らない」としつつも、「まず視覚的に説明できないと自分で納得できない」と語る。だから結果的に、その文章は「ひどくレトリカルに見える」。しかし本人は「レトリックを弄しているつもりはない」。たとえば「キリストの身体の変容」とだけ書いてあっても、その変容がどのように起こるのか、どうしても掴めない。そのため、理論的な文章を書くときでもノートはとらず、画用紙を使う。そこに丸や点を書き込み、いくつかの言葉を置いていって、その並びがどう見えるのかを確認する。そして最後に「この色で終わる」ということだけを決め、「その色に向かって書いていく」のだという。話を聞いてポカンとしている筆者に、丹生谷さんはさらに言葉を尽くして説明してくれる。なるべくその肉声の質感が伝わるように後半はほぼノーカットでお届けする。
 「僕は書くことで自分を納得させたいわけです。それも人と違う、変わった説明をしたいわけではない。他の人の説明を聞いても僕は納得できない。というか、わからないんです。たとえばカントの体系も、"海の上に浮かんでいる"と思わないと僕にはわからない。"海の上に浮かんでいる体系がぐらっと揺れる"のだろうと......そういうふうにイメージしないと掴めないんです。抽象的に順序立てて考える能力は、自分にはあまりないんです。だから、フランスのミニュイ社のカタログが好きなのは、作家の写真が載っているからです。"こういう顔をしている奴が書いてるんだ"って、あるじゃない? 要するに僕の書き方というのは、画用紙に点々と要素を置いていって、それを並べていく。美学とか哲学とか革命とか殺人とか『チェンソーマン』とか、そういう要素を並べて、いかに結びつけることができるのか......そういうやり方しかできないんです」

 少しは丹生谷さんの思考の"感じ"を掴んでいただけただろうか。

 本稿では「エアポケット」という概念を軸に話を整理してきた。上述のとおり、丹生谷さんはこの概念を「自分たちの世代に特有の感覚」、あるいは書き手としての自己を形成する「きわめて個人的な感覚」として、慎重に限定を加えつつ用いられた。しかし、映画の画面が「常にエアポケットだらけ」であるのと同じように、我々の生もまた無数のエアポケットに囲まれているという平凡なしかし容易には担い難い自明の理を、我々の眼にも見えるように指し示し続けてきたのが「造成居住区の午後へ」(コレクション第II巻所収)や「豚の戦争」(「イマーゴ」1995年8月臨時創刊号所収)の作者ではなかったか。空虚に自己を置き、自身の速度の舵手となることを実践するそのテクスト群は、少なくとも自分にとって、何かをしなければならないという強迫観念に押し潰されそうだった20代のある時期、心を軽やかにしてくれると同時に、何をしても無駄であるというニヒリズムからも距離を取らせ、なお考える力を与え続けてくれたカンフル剤のような存在だった。コレクションの刊行を機に、その思考が、より多くの読み手を触発することを、ひとりの愛読者として期待している。
 講演後のサイン会は神戸映画資料館のロビーで行われた。サインペンを手に取り、「宇野邦一って書こうかな」と冗談をおっしゃる、やはりどこか子どものようなその姿が、ずっと印象に残っている。

「丹生谷貴志コレクション」(月曜社)