『ウィキッド 永遠の約束』ジョン・M・チュウ
結城秀勇
[ cinema ]
湾岸戦争時の国際的な情報操作やプロパガンダに触発されて書かれた原作を持つ、9.11の二年後に初演されたミュージカルの映画化の完結編を見るのに、米とイスラエルによるイラン攻撃が始まった後の2026年3月という日本公開のタイミングほど適した時期はない。なんたる皮肉。
文字通り後の世の災厄の種を蒔き、ありもしない能力があるかのような嘘八百で権力の頂点に登り詰め、権力の安定を図るために先住民である動物たちを虐げ、さらにはむりやり外部に「敵」をつくり独裁を強化しようとする嘘の上塗り。とグレゴリー・マグワイア『オズの魔女記』におけるオズの魔法使い像を描写してみても、さっぱりファンタジーに思えず、洋の東西を問わず存在するいくつもの国のどれだ?と思うほどだ。
だからこそこのタイミングで前作『ふたりの魔女』を見て、とんでもなく感動した。不当な差別に虐げられてきた若者が、自らの才能によって権力への階段を登らんとするとき、これまで憧れてきた権力の醜いまでの腐敗っぷりを目の当たりにし、「重力に抗って」異なる道を行くことを選ぶ。エルファバ(シンシア・エリヴォ)の魔法の箒とまでは言えなくても、グリンダ(アリアナ・グランデ)がもらった形だけのキラキラの魔法の杖のようなものくらいには言えるんじゃないのか、街頭に集まる何万の人々が手にしているペンライトは。ただ「戦争反対」と声をあげることすら黙らせようとするなんて、それってただの「重力」なんじゃねえの、と。
なので正直、『永遠の約束』は『ふたりの魔女』ほどは盛り上がれなかった。それは出来不出来というより構造の問題だ。まず、前半から数年後の世界を描く後半は、内容の是非とは関係なく、いま起きてることをそんなふうにまとめるなんてまだ早いんじゃねえのと感じてしまう。また単純に、エルファバを主人公にした物語の続き、というよりも、後半はエルファバのような力を持ち得なかった人々の代表としてのグリンダの物語、というつくりになっていることもある(しかしそうするのならば、力を持たぬ者として、動物も含めたオズの民衆がエキストラ以上の存在でなければならなかっただろうとは思う)。そしてなにより、登場人物たちが決められた役割の枠組みから抜け出すことでストーリーが進展していく前半に対して、後半はライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』という「正典」への回収という要素が避けられないということだ。魔法使いと私、王子様と私、と望ましいカップリングを願っては諦め、最終的に愛情や友情なんて陳腐な言葉では説明できない、ほとんどなんの理由もないと言っていいような、エルファバとグリンダという最強の組み合わせに至って高く上昇する『ふたりの魔女』と、西の悪い魔女、南の善い魔女、東の悪い魔女、ブリキの木こり、カカシといった決められた役割に登場人物が次々と割り振られていく『永遠の約束』。エルファバ目線で考えるなら、後半は歴史や規範といった「重力」への敗北に他ならない(これだけクィアを支援するキャストを集めて、エルファバが敗北の代償として手にするのが異性のパートナー、でいいのか?)。
それでも『永遠の約束』から学ぶことはある。「永遠に」という意味を持つ「for good」を「いい感じで」くらいのニュアンスで多用して商標登録しようとしていたグリンダは、いざエルファバから「good」を託されたときに怖気づく。「私にはそれがなんなのかわからない」。対してエルファバは言う、「それがなんなのか学ぶことはできる」。
クライマックスで歌われる曲の歌詞のように、いまだ善の意味もよくわからぬ私たちに必要なのは、よりよい方向に物事を変えることじゃない(Who can say if I've been changed for the better?)、ただ決定的に変わることだ(I have been changed for good)。重力に抗って。いま進行する物語を後半部から振り返るのはまだもう少し先でいい。