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May 11, 2026

『ひつじ探偵団』カイル・バルダ
金在源

[ cinema ]

 指導者の喪失に直面し、右往左往するひつじたちの表情は人間のようにも見える。言うまでもなく、このストーリーの背景にはキリスト教的なモチーフが散りばめられている。聖書においてひつじたちは、神に導かれる人間の比喩として描かれてきた。本作に登場する、無垢で愛嬌に満ちた存在のように見えるひつじたちは、群れを形成し、出来事を記憶し、ときに忘却しながら生きている。そして、その過程で、偏見を生み出し異物を排除していく。その姿はむしろ人間社会そのものを映し出している。
 聖書の物語においても、指導者の喪失はたびたび描かれてきた。特にイエス・キリストの処刑後、彼に従っていた弟子たちは恐怖し、閉じこもる様子が記されている。また、後に形成される初期キリスト教共同体は、誰が共同体に属するのかという問題を内包していた。作中、飼い主のジョージ(ヒュー・ジャックマン)が殺害されたことを知ったひつじたちは、彼が読み聞かせてくれていた推理小説で培った知識で犯人に迫ろうとする。だが、それが教義のような「正しさ」として機能することで、偏見を助長する。その結果、ジョージの娘レベッカ(モリー・ゴードン)は誤認逮捕されてしまう。彼女が疑われたのは、共同体の外部にいる「理解できない存在」だったからだ。理解できない者への不安が、偏見にまみれた他者像を作り上げていく。その不安は、決してひつじたちだけのものではない。
 「人間は死なない」「ひつじはいつか雲になる」。それらを当たり前のこととして共有しているひつじたちにとって、ジョージの死は群れの在り方を揺るがせるほどの衝撃だった。「急に死んでしまうなら、人が生きる意味は何?」という子ひつじゾラの問いかけは、人間の根源的な問いとして響いてくる。
 ひつじたちは、耐えられない痛みを前にすると、三つ数えることでその記憶を忘れることができる。作中、彼らがこれまでも耐え難い出来事に遭遇するたびに、その記憶を消し去ってきたことが明かされる。直前まで困惑し怯えていたはずのひつじたちの表情は、三つ数え終わると一斉に力が抜けた顔へ戻る。そのテンポ感はコミカルでありながら、不気味でもある。感情が瞬時に移り変わるその演出は、「忘却」が彼らにとって防衛本能であると同時に、共同体を維持するための機能であることを示している。そして、ひつじたちは、自分たちを愛してくれたジョージの死さえも、その存在ごと忘れ去ろうとする。だが、群れから距離を置いて生きるセバスチャンは、それを許さない。愛してくれた存在を忘れるのではなく、喪失の痛みを抱えて生きることこそが、生きている理由につながることを示している。
 忘却することによって秩序が保たれてきた群れは、同じ記憶だけを共有する集団となっていく。それは、現代の人間社会とも重なる。タイムラインを流れていく残酷な世界の出来事も、私たちは指先ひとつで次の情報へ塗り替えていく。政治への怒りや不安もまた、喉元を過ぎれば薄れていく。
 本来、私たちは同じ記憶を共有する存在ではない。個別に異なる記憶を持ち、それぞれに異なる解釈が存在している。それは、ひつじたちの社会も同じだ。記憶を忘却することで生きてきた群れの中で、モップルだけは突出した記憶力によって忘れることができない。仲間たちが忘れても、モップルだけは記憶し続けてきた。モップルは歴史の記録者であると同時に、群れへ適応しながら孤独に生きてきた存在でもある。喪失の記憶を受け入れ、痛みを抱えながら生きていくことでしか、彼は自分自身ではいられない。たとえ共同体に属していても、彼は孤独な営みを繰り返してきた。
 セバスチャンやモップルが自らの選択や特性によって孤独に生きながら記憶を保持し続けるのに対し、冬生まれのひつじは彼らとは異なる形で孤独を背負う。ひつじたちの社会では、春生まれのひつじに対し、冬に生まれたひつじは差別の対象とされ、群れへ迎え入れられない。そして、なぜ冬生まれが排除されるのか、その理由は最後まで明確には語られない。だが、それこそが人間社会における排除の本質ではないだろうか。みんなと同じであることを拠り所とする集団において、異なる出自を持つ者は、合理的な理由もないまま不安の対象とされ排除されてきた。
 そして、忘却を繰り返すひつじたちは、差別の対象である異物の存在だけは忘れない。「冬生まれ」であることを忘れてしまえば、彼を群れに迎え入れることもできたはずだ。しかし、ひつじたちはそれをしない。それは、共通の「異物」を記憶し続けることで、つながりを維持しようとする弱さの表れでもある。
 可愛らしい動物映画だと思って鑑賞する私たち自身が、劇中のひつじたちと同じように、無意識に属性で他者を判断し、排除しながら自分が安心できる群れを形成しようとしている存在であることを、本作は暴き出す。
 物語のラスト、疑いが晴れたレベッカは、ジョージに替わってひつじたちの新たな飼い主となる。リリーは冬生まれのひつじを「ジョージ」と名付け、群れへ迎え入れる。それは単なる和解ではない。「ジョージ」と呼ぶたびに、自分たちを愛し、導いてくれた存在の想起と、喪失の痛み、そして過ちの歴史を忘却しないための戒めが同時に立ち上がる。それは、自分たちを愛してくれた者の記憶と、自らの過ちの記憶を、不可分なものとして自らに刻む行為でもある。
 ラストシーン、ジョージとリリーが見上げた空にはセバスチャンの形をした雲が浮かんでいる。異なる記憶と痛みを抱えた者たちが共に生きる共同体は、きっと雲のように、不安定に形を変え続けていく。

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