『イート・ザ・ナイト』キャロリーヌ・ポギ&ジョナタン・ビネル監督インタビュー「ハイブリッドであることは私たちが生きる社会のあり方そのもの」
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「私たちは、ジャンルや感情、時間を超越する映画を追求する」──キャロリーヌ・ポギとジョナタン・ビネルは、ベルトラン・マンディコ、ヤン・ゴンザレスとともにオムニバス映画『ウルトラ・レーヴ』(2018)を発表した直後、四人の共同で執筆した詩的マニフェスト「Flamme」でこう提唱した。彼ら現代フランス映画界の気鋭の映画作家たちは、画一化された映画の慣習や既存の規範から脱却し、ジャンルやジェンダーのコードを再構築する意図を明確に表明しているのである。
ふたりが初めて共作した『私たちに散弾銃が残されているかぎりは』(2014)では生命力を失った少年と生者の姿をした親友の亡霊が共存し、初長編『ジェシカ』(2018)ではゲームのセッションが生者と死者の架け橋となった。彼らの映画において、現実と架空、生者と死者は衝突するのではなく、互いに絡み合っているのだ。デジタルメディアが開くコミュニケーションの可能性に着目する関心は、現実と仮想(ゲーム)を大胆に交錯させた本作『イート・ザ・ナイト』へと結実している。ここで彼らは時空だけでなく、クライムスリラー、ギャング映画、家族ドラマ、クィアロマンス、メタバースといった複数のジャンルをも共存させた。つまりはジャンルも時間も超越する映画的声明の実践であり、ゲーム世代のリアリティを取り込む試みである。
ジョナタン・ビネル(以下、JV) たしかに避難所という概念は、私たちの作品において物語の骨格を形づくる要素のひとつだと思います。登場人物たちはつねにこの世界で置き去りにされていると感じていて、自分たちだけの避難所を見つけなければならないのです。ただ、これまでの私たちの映画に登場したキャラクターたちのほうがより絶望感は漂っていたと思います。一方で、『イート・ザ・ナイト』にはキャラクター同士のあいだにより多くの愛があり、もう少し希望が感じられる。たとえサーバーの世界がカウントダウンされて終わろうとしているような悲劇的な部分がありながらも、彼らはつねに光を求めているように描きたかったのです。彼らのあいだには、明るく愛に満ち、そして優しい雰囲気が保たれている必要がありました。これは、キャラクターたちがみんな黙示録に飲み込まれてしまい、すでに死んでいるような感覚だった私たちのこれまでの作品とは異なる点です。『イート・ザ・ナイト』では彼らが生きている感覚で描いています。
──あなたたちは、『私たちに~』や『ジェシカ』で一種のマジック・リアリズムを導入し、肉体が消滅していくイメージを提示していました。本作ではそれがゲームのなかで表現されていますね。現実のなかに仮想世界や黙示録的な世界をつくり出すこれまでの試みは、本作のリアルとオンランゲームを重ねる手法としてどのように発展しましたか。
JV 私たちにとって『ジェシカ』や『私たちに~』は、現実のなかに一種の仮想世界をつくり出す試みでした。一方、『イート・ザ・ナイト』は、そこからより現実に根差していると思います。本作は、北フランスに実在する港町ル・アーヴルを舞台にしており、そこには明確な労働者の歴史があり、具体性を帯びています。これまでの私たちの映画では、そういった点はもっと抽象的でした。なので、この現実的な基盤が、演出の指針を大きく決定付けただけでなく、キャラクターの書き方にも違いをもたらしたと思います。『ジェシカ』や『私たちに~』の登場人物たちはまるでこの世界に属しておらず、もはやビデオゲームのなかで生きているキャラクターに近い人物でした。対照的に『イート・ザ・ナイト』の登場人物たちは、現実の世界に住んでいるように話し、完全に生きているように感じられる。この社会環境を反映した人物造形を試みたのです。その点において、大きな違いと進化があると思います。
──二年前、来日したカンヌ映画祭監督週間アーティスティック・ディレクターのジュリアン・レジは、「本作の真に画期的なところは、ビデオゲームが映画に近付いていくこと」だと指摘していました。つまりゲームは次第に単なる避難所ではなく、現実の直接的な延長線になっていくと。ゲーム内のほうが息遣いは強調され、次第にアバターの顔立ちは現実に接近していく。一方で、パブロはゲームのアバターのように自分の身体を壁に何度もぶつけます。アポリーヌの部屋には『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)のポスターが貼られてもいますが、現実と仮想世界との相互作用をどのように考えましたか。
キャロリーヌ・ポギ(以下、CP) 私たちは、脚本執筆の初期段階から、ふたつの世界のあいだにかけ橋を築き、繋がりをつくりたいと考えていました。リアルとバーチャルは別々の世界に捉えられがちですが、私が実際に感じているように、両者のあいだに境界線を設けたくなかったのです。そのため、音楽や美術、アポリーヌの部屋のポスターなどを通じて、ふたつの世界を繋ぐ通路のようなものを示したいと考えました。たしかに映画の終盤、ゲームがますますリアルに近付くにつれて、それらはまるで本物のセット、カメラワーク、照明を備えた映画スタジオのように扱われていきます。対してもう一方の現実では、パブロがまるで『グランド・セフト・オート』(1997~)内を脱出するかのように、約15分間の逃走が描かれています。あたかもカウントダウンのリミットに掻き立てられ、ミッションを次から次とこなしていくかのように、彼は刑務所から出て、壁にぶつかり、病院に行き、車を盗む。パブロを通して描きたかったのは、人生というゲームをプレイするように生きているキャラクターという感覚でした。アポリーヌが彼に「私の誕生日を覚えてる? あなたが来て、みんなを殺しちゃったあの日。本当は盛大なお祝いをするつもりだったのに」と言う場面がありますが、アバターとゲーム内でのプレイスタイルがパブロを形づくっていたのです。パブロは孤独な少年で、絶えず移動しながら生活し、自分だけの隠れ家をつくり、自立と自主性を求めています。だけど無鉄砲に突き進んでいく一面をも持ち合わせている。そのようにして彼を現実世界のなかでもゲームのアバターのように行動させようと考えました。
つまり、ビデオゲームと現実とのあいだの文法をある意味逆転させたい欲求があったのです。またこれらすべては、ふたつの世界を多孔質にするという発想に基づいています。なぜなら、結局のところ、それぞれの世界で登場人物たちが経験する感情というのは、同じものだからです。実際に彼らはゲーム世界のなかでコミュニケーションを取っています。またパブロとアポリーヌは、現実の世界では再会できないものの、ゲーム内の最後で再会することができる。ゲームのなかであれば再び出会えるかもしれないと信じて近付いていこうとするわけです。このようにふたつの空間はあったとしても、エモーションは互いに通じ合い、それぞれの世界における感動は同期しているという考えがあったのです。
──アポリーヌは怒りや憂鬱を表現するためにゲームに飛び込みますが、彼女のアバターが何度も切り裂かれる場面は彼女の抑うつな精神状態を象徴しているかのように見えます。ゲームをアポリーヌの感情を覗く窓として用いようと考えていましたか。
JV アポリーヌという人物が、何よりもゲームとの関係によって定義されていることはたしかです。彼女は周囲に家族もなく、友人もいなさそうで、孤独な人物だと推測できる。映画の冒頭で彼女が「この街が嫌いで離れたい」と語るように、故郷ル・アーヴルを脱出すべき場所だと強く意識していることが伝わってきます。彼女の人間関係は、ゲーム『ダークヌーン』を中心に、とくに兄との関係によってのみ構築されていました。これは私たちにとって重要な点でした。なぜなら彼女にとって、ひとりで遊ぶことよりも、ふたりで遊ぶこと、つまりこのゲームのなかで兄と共有していた愛を感じながら遊ぶことが何よりも大切だったのです。ところが、ゲームの終了が告げられ、時を同じくしてパブロはナイト(エルヴァン・ケポア・ファレ)に出会うため、いつもそばにいた兄が段々と不在になっていく。一緒に遊ぶ相手が誰もいなくなってしまったため、彼女の孤独感はますます深まってしまうわけです。彼女にとって、夢中になっていたゲームはもはや意味をなさなくなった。すべて知り尽くしたゲームをただひとりだけでプレイするということは、ほとんど空虚なテリトリーと化してしまうのです。しかし、そんな時にナルーという新たなキャラクターと出会うことで、アポリーヌはゲームへの活気を再び取り戻します。そのことが私たちにとって本当に重要なことでした。彼女にとって、ゲームそのものが重要だったというより、むしろゲームのなかで人々と一緒にいること、つまり交流を可能にする空間こそが重要だったことを意味しているのです。
──あなたたちは、『アフター・スクール・ナイフ・ファイト』(2017)でも『イート・ザ・ナイト』でもコミュニティの消滅に着目し、別れを告げることができない若者を見つめています。「消滅」あるいは「消え去るものへの執着」というテーマになぜ惹かれるのでしょうか。あるいは、本作のデジタル空間が兄妹の子ども時代の避難所であるように、あなたたちの映画は子ども時代の終焉と結び付いているように思えます。たとえば『私たちに~』の少年が、失われた子ども時代を払拭するかのように屋敷内を破壊していたことからもわかります。
JV おっしゃる通り、避難所となるコミュニティの消滅、あるいは今まさに消えつつある世界という概念は、私たちが作品を通じて一貫して追求してきたものです。登場人物たちは、人生の節目で何かに別れを告げることを学ばなければならない局面に置かれている。『イート・ザ・ナイト』は、まさにそのカウントダウン、つまりゲームの終焉という概念を中心に構成されています。それは単にゲームの死であるだけでなく、子ども時代の死、そして破滅へと向かう兄妹の世界の死でもある。少なくとも彼らの目に、脱出の道はほとんど見当たりません。ただ、そのなかでも、幸せと愛を感じられる世界を築こうと必死に努力している。どのような世界を創造したいのか、どのような世界に生きたいのか、そうすることで新たな絆や関係を築き、互いに愛し合えるようになるのか──それは、私たちのすべての映画に共通する使命でもあると思います。だからこそ毎回、ある種の「避難所」という概念がそこに生まれるのです。私たちが作品をつくり続けるたびに、それがより直接的に扱われるかどうかに関わらず、つねに探求のテーマになっていると思います。
CP 「子ども時代の終焉」ということについてもう少し付け加えると、私たちは『アフター・スクール・ナイフ・ファイト』含め、多くの作品で思春期を興味深いテーマとして探求してきました。今回のアポリーヌのように、思春期は過渡期の年齢で、子どもと大人のあいだでまだ決断を迎えていない時期ですよね。少なくともその時期には、自分はどうありたいのか、どんな世界で成長したいのかを決めることができる。それは私たちがキャラクターに求めていることでもあります。彼らはいつも社会の周縁にいて、自分たちが居心地良く感じられる場所、つまり「安息の地」を築こうとしているのです。それは避難所だけでなく、コミュニティや家族──家族とは必ずしも血縁関係にあるとはかぎらず、自分たちが築き上げた「秘密の家族」のようなものも含む──を通じても実現されます。つまり登場人物たちは、つねにこの世界での新しい生き方を模索し続けているのです。それは必ずしも年齢に限定されたものではなく、成長する過程で誰もが持つ可能性であり、私たちを含めたすべての登場人物にも共通しています。たとえ年を重ね、30歳を過ぎても、私たちは物事が固定していない精神状態を維持しようと努めています。同じようにして彼らは、言わば社会の秩序をつねに問い直そうとしているキャラクターたちなのです。
JV この映画で本当に悲劇的なのは、アポリーヌ、パブロ、ナイトが決して一緒にいることがないということです。三人が同じ空間に揃っているのは、兄妹の部屋で初めて会う場面の一度だけ。それ以外では、必ず誰かが不在であり、最終的にパブロは刑務所に入ってしまう。三人は互いに愛し合えるような空間を築き上げることができないのです。なので、つねに誰かが欠けている機能不全の状況やその欠落をどう埋めるのかというテーマも描きたかった。アポリーヌとナイトはそうした状況のなかで出会うため、本作は不在の兄への愛とその喪失感、欠落をめぐる物語でもあるのです。
──そのようななかでコミュニティへの思い出や秘めた感情をボイスオーバーが明らかにします。あなたたちの作品では共通して内省的なナレーションが用いられますが、映画においてこの手法はどのような効果を持つと考えますか。
JV 私たちの登場人物たちは、往々にしてコミュニケーションを取るのが下手で、言葉を発して話すことが苦手です。ボイスオーバーの声に惹かれるのは、それが強いインパクトを与えるからだと思います。そこにはある種の秘密めいた要素があり、それが観客とキャラクターのあいだに影響を与え、まるでキャラクターの日記や内なる思考にアクセスしているかのような感覚を醸し出します。そのことは私がとても気に入っている点です。書き留められたものなのか、それとも誰かに声に出して話されたものなのかどうかわからない──密やかで謎めいていて決して誰も聞くことができない、日記の記述のように語られるナレーションの使い方が好きなのです。なぜならそれは、言葉を発することが容易ではなく、話すという行為自体をもつねに模索し続けている私たちと登場人物たちとの精神状態とよく合致しているからです。しかし、だからといって、その声の人物が、自分が何者なのか、何になりたいのか、どこへ行きたいのか、正確にわかっているというわけではありません。彼らは直感としてものを語っているけれど、同時に自分自身を定義することに苦労している。この模索の過程こそが、私たちを惹きつける要素であり、声という媒体によって可能になっているのだと思います。また、音楽の使い方についても同じことが言えます。音楽は、登場人物が言葉で表現できないことを代弁し、その内面や心の奥底にある親密な感情を伝えるために存在します。だからこそ、決して説明的な使い方をするのではなく、音楽は物語を紡ぐ手段として、非常に感覚的な要素でありながら、登場人物の感情と深く結び付いたものとして用いているのです。
──とりわけ『私たちに~』は、『エレファント』(2003)を彷彿とさせました。あなたたちが、オープンワールドのゲームにおける彷徨いと、ガス・ヴァン・サント、タル・ベーラ、リサンドロ・アロンソ、アピチャッポン・ウィーラセタクンらの長回しに共通する感覚を見出しているのが興味深いです。映画において、カメラが歩くキャラクターの背中を近くで見つめながら追従する時間はどのように作用し、どのような親密さを観客にもたらすと考えますか。
JV 興味深い質問ですね。それらの映画から、たしかに私は大きな影響を受けました。ガス・ヴァン・サントの『エレファント』は私も映画をつくりたいと思うきっかけになった作品のひとつですが、それは、まさにゲームにおいて感じていた彷徨っていくような感覚を映画のなかで再発見したような気がしたからでした。ビデオゲームには、カットがしばしば存在せず、その代わりに非常に長いワンカットが用いられているという特徴があります。それは、私が敬愛するタルコフスキーやタル・ベーラといった長回しを多用する映画作家に見られるような瞑想的な映画のスタイルと重なり合っています。このようにビデオゲームの長回しというものを知った上で、私は映画の長回しに関心を持つようになったのです。よく「映画がビデオゲームに影響を与えている」と言われますが、ビデオゲームもまた映画に影響を与えたという印象を持っています。少なくとも時間との関わりにおいて、そう感じています。ビデオゲームにおける長回しの概念に私が強く惹かれるのもそのためで、重要なのはアクションそのものではなく、プレイヤーがどのようにそれにアプローチし、どのような感情を投影するかという点なのです。劇中、アポリーヌは極めて親密なやり方でビデオゲームと接しています。彼女のゲーム内のプレイスタイルは、アバターに画面のあちこちを彷徨させ、ミッションを自分なりに再構築していくというものです。つまり彼女はゲームが課すミッションの枠組みから抜け出し、独自のミッションと領域を切り拓いていくのです。それは繊細に彷徨と長回しを用いる映画的手法を好む私たちにとって、とても気に入っていた部分でした。
──『私たちに~』で自殺する少年はギャングや銃に魅了され、『ジェシカ』で武装した少年たちは脆さを露わにします。男らしさに対する破壊的な視点をこれまで提示していましたが、本作では、暴力的でマスキュリンな環境のなかでクィアロマンスを描いています。一方で、15歳のアポリーヌは過度に性的な女性戦士のアバターをつくり上げています。マスキュリニティをどのように探るのかと同時に、ジェンダーの脱構築に関してはどのように取り組んでいるのでしょうか。
JV 私たちがとくに気に入っていたのは、ビデオゲームとはアバターを選んで、自分がどんな存在になりたいのかをある程度決めることができる数少ない場所だということでした。必ずしもジェンダーの枠にはまらない身体をつくり出すことがビデオゲームでは実際に可能です。そのユニークな点が私たちにとって重要で、構造的な要素にもなりました。また男性性において課される「束縛」についても私たちはよく話し合いました。「男の子であるために何が課されているのか? 何をすべきなのか? その枠組みのなかでどうすれば自分らしく生きられるのか、あるいは生きられないのか?」といった問いが、キャラクターたちにとってのテーマのひとつでした。なかでも父親を亡くしつつあるギャングのリーダーであるルイについては、そうした試みを意識して人物像をつくり上げていきました。彼は極めて有害で、過度に男尊女卑的な男らしさが植え付けられているという設定があります。ルイは極端な暴力を振るうことで他者を従わせ、それによってのみ尊敬を得ようとしている。それが唯一の手段である一方、彼自身もその有害な男性性に取り込まれてしまっているわけです。
またパブロもルイと同様に、何も思考せず、ただ破壊することに向かっていく人物です。結局のところ、それが彼の破滅を招く原因となってしまいます。一方で、アポリーヌとナイトは物事を大切にし、傷つけないように努めている。彼らは反応したり、熟考したり、周囲の世界に注意を払うために、より多くの時間をかける人物です。それはパブロやルイにまったく当てはまりません。そのような違いは演技にも表れています。たとえば物事を気遣い、観察するアポリーヌとナイトの場面では、映画のなかの時間が遅くなります。しかし、パブロが登場するとすべてが加速し、まるで異なるエネルギーが交差し、互いに影響し合っているような感覚が生まれる。それによって、元々は穏やかだったナイトもパブロに感化されて、次第に同じような軌跡を辿ることになってしまうのです。
──本作の現代性はクィアロマンスがテーマではなく、異性愛と同じように自然に扱われていることで際立っています。そのため彼らのセクシュアリティが問題視されたり、ホモフォビアの対象にはなりません。クィア表象にはどのような意識を持っていましたか。
JV パブロとナイトのクィアロマンスについては、私たちの映画でつねに水面下で取り上げようとしてきたテーマと通じています。『私たちに~』では、ジョシュアとシルヴァンのあいだに恋愛の可能性を見出した人がたくさんいました。『ジェシカ』でもあまり前面には押し出してはいませんでしたが、男の子同士の恋愛の可能性が潜在的に存在していました。ただ今回は、私たちは何よりもまずラブストーリーをつくりたかった。そのためこの映画は、アポリーヌがダークヌーンと兄に対して抱く愛、そしてパブロとナイトの愛を中心に構成するコンセプトを持っていたのです。パブロとナイトの出会いは物語のなかで短いエピソードであるため、強いインパクトが必要でした。劇的な展開によって、ごく短時間でその関係は急速に断ち切られてしまうため、彼らに芽生えるエネルギーを閃光のように一気に高めたかった。映画全体を通して愛が存在し、それが燃え上がるように輝かなければならないという考えがあったのです。それが私たちにとって重要な課題であり、脚本を構成する基盤となりました。アポリーヌがパブロを愛するナイトの目を通して、自分の兄を再発見することも描きたかったのです。
──特定のジャンルやジェンダーの規範に固執せず、内容も形式もハイブリッドであることは、オムニバス映画『ウルトラ・レーヴ』を共同発表したベルトラン・マンディコやヤン・ゴンザレスとも共通のビジョンだと言えるでしょうか。彼らと発表したマニフェスト「Flamme」の哲学が本作にどのように反映されているのか教えてください。
CP 私たちの映画全般に言えることですが、とくに『イート・ザ・ナイト』では「ジャンル」や「既成の枠」に容易に収まりきらないような映画をつくろうとしました。スリラー、犯罪ドラマ、ビデオゲームなどの要素はたしかに見受けられます。しかし私たちが目指しているのは、登場人物たちと同時に、私たちが生きる社会そのものを映し出すハイブリッドな世界をつくり出すことでした。このような『イート・ザ・ナイト』の混交性は、時に居心地の悪いものとして感知されるようで、観客から少し戸惑いの反応を得ることもあります。しかしながら私は、この混交性やハイブリッド性こそ私たちが生きる社会のあり方そのものであり、シネアストとして一種の現代的な言語のようなものだと深く信じています。なので『イート・ザ・ナイト』に「Flamme」の要素を見出すとしたら、それはジャンルが触手のように広がっていくような側面、そして少し極端な映画を志向しているという点にあると思います。登場人物の感情や動きも、収拾がつかないほど溢れ出るようなある種の過剰さがあるのです。
──『ウルトラ・レーヴ』のみなさんは短編を長編への踏み台として捉えず、同等の重要性を持っているように見えます。おふたりにとって短編と長編はどのような違いを意味しますか。
JV 短編映画という形式は、決して手放したくないものです。また短編は長編への踏み台だとはまったく考えていません。短い形式と長い形式では、物語の伝え方が異なるからです。アイデアも違ってきますし、何よりも資金調達や制作にかかる時間、そして映画をつくるために多くの人々を説得しなければならないという違いがある。実際に短編は制作費が安く、商業的なリスクも小さい。それだけマーケットに登場する可能性も高くなると思います。だからこそ私たちは短編をつくり続けています。私たちは意図せずとも短編映画を使って様々な試みや直感を試し、時にはそのアイデアを追求したり、見送ったりしています。とはいえ、決して短編が長編より重要度が低いというわけではありません。むしろ逆です。ただ、良い短編をつくるほうが、良い長編映画をつくるよりもちょっと簡単だと思いますけどね(笑)。長編のほうがずっと難しい。
CP 付け加えると、シネアストとして映画は私たち自身の表現手段であり、私たちの言語でもあると考えています。長編をつくる場合、脚本執筆から資金調達、制作を経て完成するまでおそらく5年ほどかかるでしょう。それよりも短編をつくることで、私たちはその表現方法をより身近に手にすることができる。私にとって短編をつくることは、表現を続け、社会を見つめ続けるための手段でもあります。私たちが生きている同時代性を反映させたものをより素早く発表することができるのが、短編の強みですよね。それは私たちの周りで起きていることと向き合い、感覚を呼び起こし、言わば共鳴の場をつくり出すことで、人々と対話し、その時代について語るための方法なのです。
──ジャンルのハイブリッド化、あるいは現実と仮想、生者と死者を共存させる新たな手法を見出そうとするあなたたちの映画は、フランス映画の自然主義から脱却しているとも言えます。ビデオゲームで育った世代であることは、様々な美学を融合させることや境界線を打ち破ることにどういったかたちで寄与していますか。またジャンル映画のコードを再構築することに関して、どういった面白みを感じていますか。
JV 私にとっては、それがまさに最大の挑戦でした。というのも、私はフランスでクラシックな映画の勉強をしてきたからです。「Fémis」(フランス国立映像音響芸術学院)の編集科に通っていたのですが、そこでは映画、あるいは少なくとも映画愛は、映画を通して生まれるべきだという伝統的な考えがありました。そういったオーソドックスな映画のつくり方の指導を受けてきた一方で、ビデオゲームに大きな影響を受けてきた私は、ビデオゲームが映画よりもヒエラルキーの低い芸術形式として見られていることに少し恥ずかしさを感じていました。ちなみに私が最初に美的衝撃を受けたのは、小島秀夫の『メタルギアソリッド2』(2001)に登場する雷電というキャラクターでした(注:『ジュリア』では同名のキャラクターを登場させている)。つまりビデオゲームを映画の下位に置くのではなく、そのふたつを融合させたい──私が直面した最大の課題は、どうすればビデオゲームを映画と組み合わせ、うまく機能させることができるかということだったのです。
──最後にお聞きします。『ジュリア』や『イート・ザ・ナイト』ではレベッカ・ズロトヴスキに謝辞を捧げていますね。彼女からはどのような支援があったのでしょうか。
CP 私たちが映画制作の技術を磨いていた頃、ちょうどレベッカは最初の長編映画である『美しき棘』(2010)を発表する時期で、彼女の映画が私たちの成長の糧となりました。また具体的には脚本を書き始めた頃、まだ構成を模索していた初期の段階で、レベッカは私たちの脚本に対してフィードバックをくれました。レベッカは脚本や俳優の演出において非常に優れた才能を持っている方なので、彼女の意見が私たちの方向性を構築してくれたのです。
2026年3月27日(オンライン)
取材・構成:常川拓也
取材協力:グッチーズ・フリースクール
2024年/フランス/107分
監督:キャロリーヌ・ポギ、ジョナタン・ビネル
脚本:キャロリーヌ・ポギ、ジョナタン・ビネル、ギヨーム・ブレオー
出演:テオ・ショルビ、エルヴァン・ケポア・ファレ、リラ・グノー ほか
©ATELIER DE PRODUCTION - AGAT FILMS & CIE - ARTE France CinNa
2026年5月23日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開
公式サイト:https://www.eatthenight2026.com/
公式X:https://x.com/eatthenight0523
ともにフランス生まれ。ジョナタン・ビネルは1988年にトゥールーズに、キャロリーヌ・ポギは1990年にアジャクシオに生まれる。共同制作を始める前に、別々にいくつかの映画を監督しており、初の共同作『私たちに散弾銃が残されているかぎりは』(2014)はベルリン国際映画祭短編部門で金熊賞を受賞。続く『Our Legacy』(2016)も同映画祭に選出された。2018年には、カンヌ批評家週間に選出された短編『アフター・スクール・ナイフ・ファイト』(2017)が、オムニバス映画『ウルトラ・レーヴ』の一編として劇場公開された。主に彼らの作品はフランス国内外の映画祭、美術館、ギャラリー、映画館、テレビ、オンラインなどで定期的に上映されている。現在はパリ、コルシカ島、トゥールーズを拠点に活動している。