2021年11月20日(土)から12月10日(金)まで横浜シネマジャック&ベティにて、そして12月18日(土)から12月24日(土)まで名古屋シネマテークにて開催される「第3回映画批評月間 フランス映画の現在」。本特集の目玉でもあるジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集をご紹介したい。今年7月27日、享年77歳で惜しまれて亡くなったステヴナンは、トリュフォー、ゴダール、リヴェット、ロジエのアシスタントを務め、「フランス映画で最も巧みに動くことができる俳優」(セルジュ・ダネー)として作家主義的映画から大作商業映画、テレビドラマまで、数々の作品に出演して人気を誇るほか、監督としては、生涯に撮った作品はたった3本ながら、フランス映画史の風景を一変させる、前例のない作風で、ゴダールをはじめ、多くの映画人、観客を魅力した。2018年に監督3作品のレストア版が公開されると、若い世代も含め、カルト的な人気をよび、同年、そのキャリア全体にジャン・ヴィゴ名誉賞が贈られた。今回は、ステヴナンの出演作の中でも代表作とされる一本『走り来る男(原題:Peaux de vaches)』(パトリシア・マズィ)も上映する。
以下、ステヴナンの紹介、そして『カイエ・デュ・シネマ』現編集長のマルコス・ウザルによる記事や、アルノー・デプレシャン、クレール・ドゥニ、ギヨーム・ブラックら映画監督たちによるステヴナンについての言葉、思い出を訳出した。
ぜひ、この機会にスクリーンにてジャン=フランソワ・ステヴナンの監督作&出演作を発見、再発見してほしい。
ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集@シネマ・ジャック&ベティ
<出演作品>
「走り来る男」監督:パトリシア・マズィ(1988年/87分)
12/6(月)15:00
ジャン=フランソワ・ステヴナン追悼特集@名古屋シネマテーク
<監督作品>
「防寒帽」 (1978年/110分)
12/18(土)13:10
12/22(水)13:10
「男子ダブルス」 (1986年/90分)
12/18(土)15:35
ジャン=フランソワ・ステヴナン特集: 逃走の悦楽
ジャン=フランソワ・ステヴナンの監督した3本の作品がデジタル修復され、リバイバルされるという知らせは今年最も嬉しいニュースである。俳優としてのステヴナンは誰もが知っており、その出演作のリストは、ジャック・リヴェット、ピエール・ズッカなど妥協することのない映画作家の作品から、『ムーラン署長』などお茶の間で大人気の連続テレビシリーズまでと幅広いが、彼が偉大な映画監督でもあることはあまり知られていない。しかし『防寒帽』(1978年)と『男子ダブルス』(1986年)は過去40年間でもっとも美しいフランス映画の2本であり、実際に観た者だけがそれを知っている。しかしこれほどまでに特異な魅力を持つステヴナンの映画は何と並べることができるだろうか?フランスでは彼がアシスタントについていたジャック・ロジエ、アメリカでは彼が師匠とみなすジョン・カサヴェテスだろう。この二人の師匠にならい、ステヴナンの映画作りはこの上なく冒険的である。社会や映画の規則を放棄し、一見カオス的に見えながら、所作、編集は非常に的確なのだ。生まれ故郷のジョラで山やアルコールを愛し、犬と一緒に歌う人々たちの驚くべき集まり、ステヴナンしか見せることができないフランス、世界が広がっていく。まさにアルコールと空手がステヴナン映画の原動力といえるだろう。
ステヴナン監督3作品はほぼ同じ物語を語っている。道中で出会った男たちが共に逃避行へと出発し、心ゆくまで漂流する。彼らの間に生まれるもの、それは時に愛に似たものであり(『防寒帽』)、旅の途中で夢のような女性に見つけたり(『男子ダブルス』)、かりそめの家族を作ったりすることもある(『ミシュカ』)。彼らが何をしたいのか、どこに行こうとしているのか分からない。彼らはまるで子供のまま大きくなったようで、ぶっきらぼうで、多少マッチョで、とくに感じがいいわけではない(それが目指されているわけではない)、しかし執拗なまでに逃走していく彼らの姿には誰もが深く心揺さぶられるだろう。
そして彼らがすれ違う人々、あるいはしばらくの間、道連れにする人々がいる。『防寒帽』では、ステヴナンが故郷のジュラで見出した人々が脇役やエキストラを演じており、驚くべき集団を構成している。山やアルコールの瓶に囲まれた、彼らの不安を誘いさえする喜び以外何も存在しないかのように、犬と共に歌うクレイジーな人々。ブランデーを飲み漁る者たち、ソース料理の詩人、崇高なる愚か者たち。こんなフランスを見せることができたのはステヴナンのみだろう。そして彼の仲間である俳優たち――ジャック・ヴィルレ(『防寒帽』で稀にみる存在感を見せている)、イヴ・アフォンソ、キャロル・ブーケ、ジャン=ポール・ルシオン、あるいは比類なきジャン=ポール・ボネール――、映画の中で登場人物たちが人生に身をゆだねるように、彼らはステヴナンに身をゆだね、酩酊の夜のような、心地よくも狂おしい熱狂の中へと乗り出していく。
3本の作品は、3人の兄弟のように互いに似ているとともに異なってもいて、それぞれに特有のエネルギーと風景を持っている。ジュラ山脈の中で撮られた『防寒帽』は故郷の地と思春期の夢からひきちぎられたかのように、もっとも狂おしく、激しく、叙情的な作品だ。グルノーブルの街と周囲の山中で撮られた『男子ダブルス』はよりざらざらと乾いたように見えるが、そのリズムや編集は見事なまでに音楽的であり、すべてが悲劇的に一秒ほど早く幕を閉じてしまいながらも、雪の中でのラストは映画史上で最も素晴らしい抱擁を見せてくれる。『ミシュカ』は3本の中でも驚きに乏しい作品であるかもしれないが、見直してみて、公開当時に失望したことを悔やむほど素晴らしい作品だ。あまり目を向けられず、愛されることもなくきた人々が動物的本能で互いに分かり合う。『ミシュカ』は夏の映画、ヴァカンスの映画であり、よりのびのびとして、優しさに満ち、まるで7月の心地よい風に押し流されていくかのように、カメラはゆったりと動いていく。人間たちが演じられる、見捨てられた犬たちの物語だ。
映画監督たちによるジャン=フランソワ・ステヴナンへの言葉
ヌーヴェルヴァーグがフランスで起こり、後にそれがアメリカで不思議な展開を見せた。ハリウッドに対して、現実をフィクションに置き換えることを余儀なくされる低予算のフィルムが生まれ始めたのだ。大西洋の向こう側で、思考の映画が、俳優の映画へと変貌した。アメリカのジャンル映画によって形を変えたこのヌーヴェルヴァーグの遺産を、たったひとり、ステヴナンがフランスに回帰させた。そしてまたステヴナンは、不器用にもこう名付けるしか私にはできないのだが、「しぐさの映画」というべきものを創り出したのだ。
ゴダールは「盲目の映画を作ることができるだろう」と述べていたが、そこにはつねに彼自身の手が介在していた。ステヴナンの1本の作品のワンシーンを見るだけで、この逆説を理解することができだろう。
ステヴナンが俳優であることは偶然ではない、それも途方もない俳優であることは。ステヴナンはただ単に、私たちのクリント・イーストウッドなのだ。彼らふたりの映画には同じ古典主義、同じモデルニテが存在し、同じ謙虚さ、そして映画がこうあるべきであるという広大で、果てしない理念を共有している。
ステヴナンは、彼の身体のすべてによって映画を作っているのだから。
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