« previous | メイン | next »

October 1, 2011

『5 windows』瀬田なつき
結城秀勇

[ cinema , sports ]

 橋の上、電車の中、マンションの屋上、川沿いの道。さしたる理由もなく、彼らはその時、その場所にいる。歩きながら、電車や自転車などの乗り物に乗りながら、ぼんやりと立ち尽くしながら。それがたった一度きりの人生のまぎれもないひとつの断片だなどとは微塵も意識しようはずもない、ただ通り過ぎていくだけの時間の中で、彼らは皆孤立している。たとえば未曽有の大地震でも起きない限り、そんな瞬間があったことすら知覚されようもない、わずかで孤独な時間。
それは私たちが普段、電車の中で、車の流れの中で、あるいは自分の住まいの窓から、眺める景色なのかもしれない。もしくは映画館の、見知らぬ人と隣り合った暗闇の中で感じる孤独に似たものかもしれない。そして幸福なことに(あるいは哀しいことに)私たちはめったにそのことに気づかない。
だが『5Windows』の最後で、そのほとんどなんでもない時間は時を止める。といっても一瞬がストップモーションによって持続するのでもなく、短い時間がスローモーションによってどこまでも引き延ばされるのでもない。それぞれにふわふわと浮遊する4人の時間が、「14:50」という座標を与えられた瞬間に、彼らは「8月27日の14:50」という任意の点の周りをぐるぐると回り始める。ほとんどなんでもなかったはずの時間が、密度を増し、そのテンポを速め、カットアップされてアンサンブルを奏で出す。
そしてその地点にいたる物語を登場人物たちは堰を切ったように語りはじめる。夢、記憶、妄想。彼らがいまそこにいる理由は、もちろんほとんどなんの理由にもならないものでしかない。ほとんどなにもない、でも微かだが確かになにかがある。交わる視線、伝染するハナウタ、ただ流れ去ってしまえば知覚すらされないような些細なひっかかりが、しばしの間終わらない「14:50」の中で繰り返される。私たちは奇妙な「14:50」の周りを登場人物たちと一緒にぐるぐると回り続け、感覚が次第にブーストされていくのを体感する。でも、それは永遠であったり、世界の終わりだったりというような、大それたものではない。やはり何事もなかったかのように14:50は終わりを告げて、気づけば三時を回っている。その瞬間、私たちはあまりに当たり前すぎて気づかない喪失感を急に思い出す。孤独であったこと、それすら気づかずに時間が過ぎてしまっていたこと。中村ゆりかが流す涙には、もちろん、ほとんどなにも理由はない。だからこそ私たちもまた、ほとんどなんの理由もなく泣き出してしまいそうになる。

おそらく瀬田なつきは、ヴァレリー・ドンゼッリやクリストフ・オノレといった、ヌーヴェルヴァーグ以降の系譜の中に突然変異のように出現したフランスの若手監督たちと非常に近い位置にある。奇しくも、ドンゼッリもオノレも遠く離れた場所にいるふたりの男女が、対話を行うかのようにデュエットするシーンを持った映画を監督している。そのシーンの重要性は、単にメロディによって台詞がより情念に訴えかけるものになるということなのではなくて、AメロBメロサビといった構造によって必然的に繰り返される同じメロディ、同じ言葉が、反復の中で次第に意味や強度を変えていくことのほうにある。それはどろどろとぬかるんだ暗い世界を、少しでも軽やかにそして強く戦い抜くためのひとつの方法なのだと思う。
『5 windows』の中、私たちは反復する14:50がなんでもなくはないなにかに変わる瞬間を体験して、なおかつそれがやはりほとんどなんでもない時間同様過ぎ去ってしまうのを経験する。だが、14:50が終わったあとの世界でも、私たちはあのハナウタをリプリーズすることができる。それはほとんどなんでもない時間を生きる者たちには少し贅沢すぎるほどに、ゴージャスでダイナミックなものになる。


港のスペクタクル 建築×映画×音楽×アートプログラム Cinema de Nomad「漂流する映画館」にて、2011年10月1日 (土) - 7日 (金)まで上映