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October 10, 2014

『ジェラシー』フィリップ・ガレル
奥平詩野

[ cinema ]

 恐らく嫉妬という感情について描いたのだろうと思って見始めていると、クローディア(アナ・ムグラリス)の嫉妬心に捕らえられて窮屈そうなぎこちない笑みがやたら印象に残るシーンが続く。彼女がルイ(ルイ・ガレル)と居ることで彼に依存的になってしまう不安と危機感、満たされ得ずに増幅していく具体的に言葉には出来ない欲求に雁字搦めになって神経が過敏になって行く様子はリアルであって痛ましい。しかしこの映画は一組のカップルの関係の変化と葛藤を、ふたりの世界の中で緻密に濃密に、感傷的に描写しているのでは決してなく、ふたりだけの閉鎖的な世界というものとそれを取り巻く日常というものの境界を設置せず、そしてそのふたつがそれぞれに臨界点を持たずに相互に浸透して連動している世界のなかで描写している。だからこの映画はあるカップルの破局までを描いた恋愛映画ではあるが、常に恋人以外の何かに空気の逃げ道があり、重苦しくなく、かといって軽薄でもなく、モノクロの映像が押し付けがましく無いように非常に上品である。そしてこの空気の逃げ道を可能にしているのは、これが過去の思い出であるように表現されているということにあるだろう。
 勿論一組のカップルが破局するのだからある程度心が痛むような話ではあるのだが、私たちが感じ得るのは、美しさに満ちたかつての生活の懐かしさの様なものである。この映画はある破局に終わったカップルを描いたと言うより、まるでその破局そのものの歴史の中に破局の原因を探そうとかつての生活の記憶を思い出しているうちに、その時期の生活全体への慈しみや愛着が同時に湧き上がってくる様な、切ないけれども美しい想起の形で観客の前に現れるように感じられる。クローディアと、ルイの娘のシャルロットがキャンディを盗んでルイを困らせるシーンは、その場面が平和で長閑で幸福な美しい情景でありながらも、それがクローディアがルイから自分を解放しなければならないという焦りと不安を抱え続けている破局までの日常のひと時に過ぎないという感傷が同時に強く存在し、そこで巧妙に挿入される音楽も相まって涙無しには観ることが出来ない。逆に破局やルイの自殺未遂のシーンではそのクライマックス的な激情や終局の感じよりも、独特の余韻の残らないカットも助けてそれが他の情景と重量的にはさして変わらない一コマであるように感じられる。更に不思議なことに、この思い出のようなものの所有者はクローディアでは決して無いのに、恐らくこの映画の中で最も心理的な物語を経験したように思われるのはクローディアであり、彼女が人知れず自分の葛藤を克服して呼吸をし始める事に対して、そしてそれは破局として現れるのだが、私たちはその破局に対してさえ悲哀と同時に理解を示すことが出来る。そのことに、つまりクローディアを中心にした思い出を再生する行為自体が彼女に対する理解を生むことに、別れ際にクローディアの言った「時間が答えよ」という言葉の意味があるように思えてならない。記憶の中という場所によって、一組のカップルの思い出と生活そのものの思い出が互いに混ざり合ってひとつの全体的な思い出として、そしてその思い出はそれ故に、思い出というもの自体が持つ美しさは勿論、その物語の痛ましさ、しかし終わった事への懐かしさや、どこか他人事の様な無関心さすべてが混ざり合っているが、盲目的な生気ある情熱を決して帯びないひとつの全体的な思い出として浮かび上がってくる。しかしそのことが幸福な情景に感傷を差し、悲哀な情景を寛容し、葛藤に理解を与え、何かが思い出であるという事の美しさを露呈させているのではないだろうか。
 何かが始まって何かが終わるといったような物語る手法でなく、何かがあたかも既に終わっていて、その終わりに向かうまでの出来事を想起的に紡いでいるように感じさせる表現によって、私たちはそれが終わっている、もしくは終わりに向かう過程に必ず位置しているという了解を持ちながらそれぞれの出来事を観ることになり、それが映画全体を包む、生きたストーリー展開やハッピーエンドの可能性への諦めに似た感覚を生み、それ故にそれぞれの場面には常に一貫する切なさと遣る瀬無さ、それに対する受け入れと懐かしさがあり、それに加え何処か俯瞰して自分たちを見るような登場人物たちの気楽さ、幸福さがあり、それら全部が無愛想とでも言えそうなモノクロの映像と品良く挿入された音楽によって然るべき状態に結び合わされることによって、思い出というものの非常に美しく情感あふれる感覚をリアルに私たちに呼び起こすのである。

映画「ジェラシー」オフィシャルサイト