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February 24, 2006

『マイ・アーキテクト』ナサニエル・カーン
梅本洋一

[ architecture , music ]

 ルイス・カーンの私生児として生まれたナサニエルが、父の姿を追うドキュメンタリー。だが、このフィルムはいかにも中途半端なものとして終わっている。一度にふたつのことを実現しようとして、そのどちらにも失敗してしまったからだ。ふたつのこととは、まずルイス・カーンの建築、そしてナサニエル自らの出自。このふたつのことは実のところほとんど関係がない。カーンの建築の凄さと彼が愛した3人の女性の物語には関係がない。もし、彼女たちとの関係が存在しなければ、カーンの作品も存在しないというのなら話は別だが、カーンの建築の「崇光さ」と彼の生きた人生の「凡庸さ」には関わりはないのだ。ところがナサニエルは、自らの出自のために、そのふたつに足を掛け、カーンの創造を明らかにする誠実なドキュメンタリー・フィルムも、カーンの人生と自らの人生を合成する凡庸なメロドラマも撮ることができなかった。多くのニューズリールを利用してカーンの人生を再現する試みは悪くはないのだが、実のところ、それは、ナサニエルの人生とほとんど関係ない。そして、このフィルムを見る限り、カーンの偉大さはナサニエルにとって与件であって、この撮影を通じてナサニエルは父の建築を何も理解していないように見える。
 もっと別のやり方があったのではないか。カーンの足跡を何の保留もなく真摯に追い、最後に自らの出自を明らかにする方法がそれだ。これなら、父の偉大さを理解しようとする遺児の意欲は納得できる。だが、ナサニエルは、遺児である自らの出自を最初からこのフィルムで利用している。これはフェアではない。ドキュメンタリーは少なくともフェアであることは必要だ。最終的にどこかに着地しなければならないにせよ、出発点はフェアであるべきなのだ。カーンの「偉大さ」をオブジェクティヴに理解することからしか、そのフェアネスは出発しないのではないか。私もカーンの建築の内部は素晴らしいと思う。だが、なぜ彼はあのようなモニュメンタルなものを連作したのか、それは単に彼がイタリアやギリシアに滞在したからなのか、建築はそんなに単純ではないだろうと思う。リチャード・ロジャーズのカーンについての意見などもっと残してほしい箇所が多かった。

Q-AXシネマ シネマ2にてレイトショー