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May 11, 2008

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』ポール・トーマス・アンダーソン
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 同じスコット・ルーディンをプロデューサーとする『ノー・カントリー』におけるトミー・リー・ジョーンズの抑揚のある演技(否、存在と呼んだ方が適切だ)と、このフィルムのダニエル・デル=ルイスの過剰な演技を比較してしまうと、どうしてもトミー・リー・ジョーンズに軍配が上がり、もしこのフィルムもトミー・リー・ジョーンズが主演していたら、などと考えてしまうのだが、それでもポール・トーマス・アンダーソンの志は高い。
 何よりもまず30年のタイムスパンを持つ、この物語を映画化するにあたって、エピックという語り口を選んだこと。それは賞賛されるべきだ。カタルシスを欠き、物語の盛り上がりを犠牲にして、それぞれのシーン、各々のショットに力を込め、映画的な省略によって、重要な瞬間だけを選んでいく手法を、もしエピックと呼ぶとすれば、このフィルムは、十分にその内容を満たしている。それまでやや「際物」と戯れていた感のあるポール・トーマス・アンダーソンが、ここでは、エピックに正面から取り組んでいる。それほど快晴と言えぬ大きな空の広がる荒れ地を一直線に線路が走り、遠くから蒸気機関車に牽引された列車が走るだけで、すでにこのフィルムは、映画の何たるかを心得ている。このフィルムを見ながら、おそらく誰でも思い出すにちがいない『天国の門』。マイケル・チミノの壮大な映画の魂とエピックを造りあげるのは困難であるという教訓を、ポール・トーマス・アンダーソンも受け継いでいるだろう。映像では確かに『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、『天国の門』に大きく引けを取るだろうが、ポール・トーマス・アンダーソンの選んだ道は、このフィルムを完成に導くことであって、そのためにはまず何よりも、映画という誇大妄想にチミノのように囚われてはならない。誇大妄想に囚われているのは、映画作家であってはならず、このフィルムの主人公の方なのだ。映画作家は、主人公の誇大妄想を、彼の傍らにあって、静かに造形してみせることだ。ポール・トーマス・アンダーソンは、だから、とても聡明だ。もちろんその聡明さとは、賛辞であると同時に物足りなさでもある。ユナイトを破産に追い込んだチミノと、このフィルムでダニエル・デル=ルイスをオスカーの最優秀主演男優賞に導いたポール・トーマス・アンダーソンの差異はそこにあるだろう。
 だが、それにしても、『ノー・カントリー』といい、このフィルムといい、アメリカ映画の優れた部分は、大きく翳りのある灰色の世界に行き着いているのは単に偶然ではないだろう。

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