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April 15, 2013

ALC CINEMA vol.2 『PASSION』濱口竜介
増田景子

[ cinema ]

ALC CINEMAが催されたのは、建築・アート関係の書物が天井近くまで並べられた横浜吉田町のArchiship Library&Caféで、木枠できちんとゾーニングされているため圧迫感はないが、40人座ればいっぱいになってしまう小さなスペースである。2階が建築事務所でもあるこの場所で「映画」「場所の記憶」「そして、これから」を再考しようというALC CINEMAが第2回目の作品として選んだのは濱口竜介の『PASSION』(08)であった。作品上映後のトークのゲストに中山英之、司会に藤原徹平と建築家が呼ばれ、観客も8割が建築関係者という建築色の強い印象を受けたが、トークは映画と建築の双方に共通する「物語をどのように成り立たせるか?」というところから始まった。


あちらこちらを経由しながら2時間近く続いたトークのなかでも特に印象に残ったのは「図々しさ」についての話である。『PASSION』では煙草を吸うたびに、台所に立つたびに空間が区切られ、ショットが割られていく。そしてひとつにカメラを向けてしまえば、同時にもうひとつを映すことはできない。その割られてしまったふたつの間を補完していくのは観客である。それを「想像力の労働」と言ったのは濱口監督で、そうやって観客を労働させる「図々しさ」が濱口映画には存在しているというのだ。
彼の「図々しさ」はそれだけではなくセリフの多さにも表れている。沈黙との相性がよい映画であるにもかかわらず、脚本完成時に教師である黒沢清も指摘したという饒舌な映画は、セリフを言えば言うほど作り物であることを露呈することを知りながらしゃべり続けている。暴力についての授業や本音ゲームなど必要以上に語ろうとする登場人物たち。そこに現実そっくりの「リアリティ」は見られないかもしれないが、想像力の労働を介することで人生の「アクチュアリティ」を垣間見せてしまう。それは濱口監督がカサヴェテスの『ハズバンズ』(70)を見て感じたことに近い経験かもしれない。


そんな「想像力の労働」の話のなかで、チェルフィッチュの岡田利規の言う「受精」との類似が藤原さんによって指摘された。この「受精」という言葉は、「パフォーマンスという行為を観客の中で表象ができあがる、その過程な〈種〉をしっかり植え付ける行為だというように意識してもらうように」、2010年の『わたしたちは無傷な別人である』で使い始めた言葉だという。この言葉は、チェルフィッチュのパフォーマンスがどう見えるかからどう受け取られるか、つまり動きそのものから観客に与える効果へという変化したということを意味している。濱口映画が求める「想像力の労働」とチェルフィッチュのパフォーマンスが試みる「受精」を結びつけるとすれば、濱口映画の膨大なセリフの内容以上に、会話という行為そのものの方が重要であり、このセリフの蓄積が何かを植えつけるということになる。


それはある意味で映画からの「暴力」だ。だが、観客とは映画からの「暴力」を進んで受けに来ている人たちなのある。トモヤ(岡本竜汰)がタカコ(占部房子)の部屋に何かを求めて訪れたように多くの観客は映画から何かを求めてスクリーンの前に座る。それは「感動」かもしれないし「人生を変えるもの」かもしれない。何かを与えることを望んで映画を見にくる。しかし、濱口映画は簡単にそれを与えてはくれない。映画のなかでカホ(河井青葉)が学校の生徒たちに暴力に対抗するには暴力を引き受けるしかないと説く。これに準ずると、観客は何かを植えつけてもらいたいならば、まずはしかとスクリーンの映像と流れてくる音を引き受け、己の想像力をもって労働しなければならない。それを求めてしまう「図々しさ」が濱口映画には存在している。だが逆にいえば、その「図々しさ」を補える労働を観客がすれば、人生の「アクチュアリティ」が垣間見られるのである。


数々の理由によってそういった「図々しい」ものたちが存在しにくくなっている現在、映画にしろ、建築にしろ、演劇にしろ、そういった「図々しい」作品をつくれる人間はいったいどのくらいいるのだろうか?「世界は図々しさを待っている」。トーク終了後に出てきた藤原さんの一言が今でも耳に残っている。



ALC CINEMA vol.2 4月13日(土)18:15~ Archiship Library&Caféにて