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January 27, 2015

『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』アルノー・デプレシャン
結城秀勇

[ cinema ]

第二次世界大戦の従軍中に頭部に障害を負ったアメリカインディアン、ジミー・ピカード(ベニチオ・デル・トロ)は頭痛とめまいの治療のために、陸軍病院に入院することになる。その際に行われる様々な検査のなかで、ロールシャッハテストのような、特定の図像を見て思うことを述べる検査が行われるのだが、示された絵を見てしばし黙りこんだジミーは、やがてこんなことを言う。「代わりに毎晩オレが見るイメージの話をしよう」。高い塀の上を歩いているのだが、落ちそうで落ちない、そんな話をしたジミーに対して、検査を行っている若い医師は戸惑いながらもこう問う、「夢のことなのか?君が話しているのは?」。
ジミーというひとりの男の夢と過去とをただ巡るだけの物語、とシンプルに要約できそうな本作において夢の持つ重要性とは、それが分析の対象となりひいては彼を治癒する材料になるという、ただそれだけにはとどまらない。監督がアンスティチュ・フランセで行われたスカイプトークの際に使っていた表現を用いれば「夢のオリンピックチャンピオン」であるジミーの夢の総体は、われわれが到底把握できるようなものではないし、また生半可な知識で手軽に分類できるようなものでもない。床屋で散髪する主治医ジョルジュ・ドゥヴルー(マチュー・アマルリック)の傍らで、「夢の話だったら一日中だってしていられる」とジミーは楽しそうに語る。その数限りない夢全体のほんの氷山の一角として、この映画の中で私たちは彼が口にするいくつかの夢の話を聞くことになるのだが、彼の語る夢に魅了されると同時に、一方で、先に引用した若い医師と同じ戸惑いをも覚えはしないだろうか。「夢のことなのか?君が話しているのは?」と。
それは彼の語る話とそれにフラッシュバック的に被さる夢の再現映像/過去の回想が、それが"ただの夢"なのか、あるいは"過去の出来事"なのかが、それほど明確な線引きをされているようには見えないからだ。"過去の出来事"のはずなのに、なぜかかつてそうであったジミー少年とそれを見ている現在のジミーが同じ映像の中に存在し、また過去の若きジミーが行った行為を現在の中年になったジミーが引き継ぐというような演出がされている箇所がある。現実にかつて起こった"過去の出来事"と、起こりもしなかった"ただの夢"、通例、私たちは明確に分けて考えたくなるようなふたつの種類の映像が、ほとんど同じものかのように彼の言葉の上に重なる。
劇中で彼が語る"過去の出来事"の物語は、ものすごく乱暴に言ってしまえばだいたいが女性についての話だ。夢ではなく現実に起こったはずの、複数の女性たちとの交流は、なぜあたかも夢と見分けがつかないようなやり方で描かれるのか。なぜ戦争中に浮気した元妻はスチール映像としてその容貌を観客に知らしめるのか。なぜ彼の女性観に多大な影響を与えた彼の母親の顔は観客に示されないのか。夢の中で病に臥す彼の姉は、幼い彼を誘惑した近所の少女は、彼の娘の母親となったかつての恋人は、バーで出会った新しい恋人となるかもしれないあの女性は、そして彼のたったひとりの娘は、はたして"ただの夢"としてではなくなにかそれ以上の"過去の出来事"として存在するなどと言うことができるのだろうか?
あるいはこう問い直すべきかもしれない。イメージそれ自体の水準において、裏打ちのない"ただの夢"と、照応する事実に裏打ちされる"過去の出来事"との間に、強度の差などあるのかと。少なくとも言えるのは、『ジミーとジョルジュ』という映画を見る者たちにとって、ジミーというひとりの男を知る手がかりとなるのは、彼が実在した人物であるとか彼の伝記的事実であるとかいうことなどではなくて、彼の夢や過去の話の中に浮かび上がる、彼の中を通り抜けていった数々のイメージたちの方だろうということだ。『キングス&クイーン』が、ノラという女性が愛した4人の男たちの物語でもあったように、『ジミーとジョルジュ』は、ジミーという男の中に、かつて生き、いまあり、そしてこれから生きるだろう、女性たちの肖像について映画だとも言える。そうした意味において、「映画は夢だ」という使い古されて擦り切れた隠喩が、この作品とともに力を取り戻す。すべての通り過ぎていったイメージたちの、あるいはすべてのこれから来るべきイメージたちの居場所である、映画もしくは夢として。


映画「ジミーとジョルジュ 心の欠片(かけら)を探して」オフィシャルサイト

アンスティチュ・フランセ東京 「アルノー・デプレシャン特集 『ジミーとジョルジュ 心の欠片(かけら)を探して』をめぐって」