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March 7, 2018

『ハドソン川の奇跡』クリント・イーストウッド
結城秀勇

[ cinema ]

※以下は、「横浜国立大学大学院都市イノベーション学府・研究院イヤーブック2016/2017 特集 批評の現在」に寄せた文章である。近日アップ予定の『15時17分、パリ行き』評の前提として、より多くの人に読んでもらう機会があればと思い、同学府・研究院のご厚意のもとここに再掲させていただく。



事実の後で

オックスフォード大学出版局が「word of the year」に「post-truth」という言葉を選んだ2016年だが、依然「事実に基づく」「これは真実のストーリーである」などといった断り書きが数多くの大作アメリカ映画の冒頭を飾っていた。基本的に数年がかりのプロジェクトである大作映画がその年の流行語を反映していないとしてもなんの不思議もないのだが、ここで述べたいのはこれからアメリカ映画は「post-truth」に変わっていくだろうとか、いやCGIがここまで当たり前になった現代においてはすでに映画は「post-truth」の時代に入っているのだとか、そんなくだらない分析ではない。
そもそも映画とは、字義通りの意味で「post-truth」なものである。それがフィクションであれドキュメンタリーであれ、デジタルの粒で描かれたイラストレーションに過ぎなかろうが、ただの絵に描いた餅だろうが、カメラの前で(あるいは作業用モニターの中で)起こったなんらかの事実が再びスクリーンに投射される、そのプロセスこそが映画である。映画は本質的に「事実の後で」存在するものだ。
にもかかわらず、どうあがいても「事実の後で」としか存在しえない映画が、「事実に基づく」「これは真実のストーリーである」などという文句とともにこの10年ばかりあり続けている傾向には、どこか倒錯的なものを感じる。まるで「post-truth」な時代なのだから、せめて映画の中くらいは現実を信じたい、とでもいうような。まるで外部に自明なものとして存在する事実なり真実なり現実なりの力を借りれば、感動なり説得力なりおもしろさなりが増えるとでもいうような。
だが、映画は自らの外部に無前提に存在する事実や真実や現実を搾取することによって成立しているのではないし、そうあるべきでもない。あたかもそうであるかのような見方には(そして同時に「post-truth」という用語の現在の用いられ方には)ある種の転倒がある。実際には、事実も真実も現実も、無前提に自明なものとして存在したりはしないからだ。それらは常になんらかのフレーミングとともにしか存在しない。「事実の後で」しか存在しえない映画の役割とは、自らの正しいフレーミングによって、そこに事実なり真実なり現実なりを発見する(あるいは、創り出す)ことである。
こうした状況下で、一見無数の「事実に基づく」「これは真実のストーリーである」映画の一本に過ぎないようなフリをしながら、その内部からクリティカルな視点を提示する作品がある。2016年だけでも『ブリッジ・オブ・スパイ』、『ザ・ウォーク』、少し変わり種としては『白鯨との闘い』などの名を挙げることができるだろう。だがここでは、それらの作品にがこの問題とどのような関係性を切り結んでいるのかを列挙する代わりに、それらの中でも決定版と呼べるようなただひとつの作品についてのみ語ることにする。クリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』である。

2009年1月15日に起きたUSエアウェイズ1549便不時着水事故を取り上げたこの作品は、諸処の「事実に基づく」作品群が逃れ難く持つ、ある種の特徴を過激なまでに持っている。つまり、それがすでに起こってしまった有名な事件であるがゆえに、たいていの場合観客は映画を見る前から、そこでなにが起こるのかを薄々知っている、ということだ。離陸直後にトラブルに見舞われたUSエアウェイズ1549便が、ハドソン川に不時着水するという機長の選択によって奇跡的に乗客155人全員が助かりました、以上。しかし、この作品における「事実の後で」性は、物語を語るうえで問題になるだけではない。それだけではなく『ハドソン川の奇跡』という作品内部においても、映画がはじまった瞬間にはもうすでに、USエアウェイズ1549便はハドソン川に不時着水を済ませた後なのである。
事故によって一躍ヒーローになった"サリー"・サレンバーガー機長(トム・ハンクス)は、マスコミの取材や彼の責任を追及する事故調査委員会とのやりとりの中で、問題となった1月15日のフライトを回想し、これまでの人生でターニングポイントととなった過去のフライトを回想し、そして運命を変えたフライトのありえたかもしれない結果(=墜落)を妄想する。そのように操作された時系列の流れの中で、観客は事故当日の出来事を遡及的に知っていく。とりわけ作品中盤に置かれた、不時着水から河岸警備隊による救出にいたるくだりはこの作品のクライマックスと言ってもよく、このシーンの出来栄えだけでも極めて上質な「事実に基づく」映画となり得ていると言える(救出隊の何名かは、実際に救助作業に参加した本人だという点も、指摘しておくべきだろう)。
だが、『ハドソン川の奇跡』がただのよく出来た「事実に基づく」映画とは呼び難い異様さを備えているのは、その感動的な事故当日の映像と、その他の過去のフライトやありえたかもしれない妄想とが、ほとんど等価と言いたくなるような重要性と長さとを持って並べられているからだ。不時着水が成功したことは、サリーが若い頃に複葉機で行った飛行とも、エンジントラブルに見舞われた戦闘機を無事着陸させた過去とも、直接的にはまったく関係がない。彼の妄想の中でニューヨークの街並みを破壊しながら炎上する旅客機とも、なんの関係もない。だが世界を感動させた奇跡的な唯一無二の不時着水も、その他の無数の着陸や着陸失敗の映像と本質的には変わりがないものであるかのように、この作品では配置されている。おそらくこうした構成は、映画の最後に置かれた公聴会で行われるシミュレーション実験と関わっている。このフライトシミュレーションによって問われているのは、無数に量産されうるシミュレーション映像(つまり不時着水をせずとも、空港に戻ることが可能だったこと)と、実際に起こったたったひとつの映像(不時着水しか選択肢がなかった)は、なぜ同じものにならないのかということである。公聴会の論理は、すでに起きたたったひとつの出来事の正当性は、それが複製可能であることによって保証される、というものである。
それに対してサリーがとる戦略とは、このシミュレーションには人的要因が欠けていることを指摘して、可能だったかもしれない別の選択肢など存在しなかったことを証明することである。それによって調査委員会の面々は論破され、サリーの正しさは証明される。しかし「事実の後で」をめぐるこの論考で指摘しておきたいのは、彼の選択が他に置き換えのきかないものであったということではない。この作品の真の重要性は、続くフライトレコーダーの音源を公聴会の参加者全員で聞くという場面にある。
フライトレコーダーの音声が再生されはじめると、画面は事故当日のコックピットの映像に切り替わる。それ自体は、この映画の中で何度も繰り返し見ている映像であり、冒頭に置かれた墜落で終わる妄想のフライトや、中盤に置かれた奇跡の不時着水を成功させるフライトと、なんの違いもないように見える。そしてこの208秒のフライトレコーダーの記録は、我々観客が知る通りに着水の成功によって終わる。その、既にそうなるとわかっていることがそうなるだけの映像と音声によってなにを思えばいいのか、観客は戸惑うだろうし、実際、直後にサリーに感想を聞かれた副機長(アーロン・エッカート)も戸惑っている。
そんな彼に向かってサリーは言うのだ、「私は君たちを誇りに思う。我々はよくやった」と。彼は観客が繰り返し繰り返し見知った208秒の出来事を肯定する。それは、この208秒というフレームの外に、155人の乗客全員の命を救ったという事実があるからでもなく、他に選択肢がなかったことが証明されたからでもなく、ただただ208秒という限られたフレームに収められた振る舞いが適切だったからだ。そのフレームの正しさを、振る舞いの適切さを、居並ぶ人々とともに彼らは見た(聞いた)。それ以外に、『ハドソン川の奇跡』の中にこの208秒を肯定できる要素は存在しない。
ひとつの映像の価値を決めるのは、そのフレームの外に同じ規範を持った複数の映像があるからでもないし、その逆にそのフレームの外に似た映像がないという希少性でもない。ただそのフレームの正しさとフレーム内の振る舞いの正しさだけが映像の価値を決める。そうした映画に対する最低限にして最大限の倫理を、『ハドソン川の奇跡』は確固として提示する。だから、人が埋め尽くした会議室で、皆ヘッドフォンをつけて、その必要もないのに前を向き、すでに結果がそうなるとわかっている音声を聞く姿が、まるで映画館のようだと思ってしまう。そして副機長によくやったと告げるサリーの姿が、「俺たちはすごくいい映画をつくったよな!」と助監督に言う映画監督のように見えてしかたがない。


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