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October 29, 2018

『FUGAKU 1 / 犬小屋のゾンビ』 青山真治
結城秀勇

[ cinema ]

 「いたるところで水の音がする」。という言葉で幕を開けた『EM エンバーミング』上映後のトークの中で樋口泰人は、この作品の6年後の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の冒頭から作品を覆う陰鬱さに比べて、『EM〜』はどこかまだ楽観的な気がする、と述べていた。フィルムからデジタルへ、という撮影素材の変遷と重ね合わせて語られるその話を聞きながら、『EM』の死体と死体そっくりな男と彼らと血が繋がった少女は、『エリ・エリ〜』最終盤の中原昌也と、さらには『東京公園』の染谷将太と、なにがどう違うのだろうと考えていた。いや、そもそも『Helpless』以降の「北九州サーガ」三部作が、亡霊をどう扱うかの変遷そのものじゃねえか、などとも。
 だから続けて見た「FUGAKU」三部作でも、『FUGAKU 2 / かもめ The shots』の湖のほとりの舞台では水の音がしてかもめの死体とその剥製が出てくるな、などと考えてしまうし、『FuGAK 3 / さらば愛しのeien』で幽霊や骨の話が語られる背後でずっと鳴っている(たぶん)空調のノイズが、人々を居眠りへと誘う午後の雨の音のように聞こえて仕方がない。なかでもとりわけタイトルにそのものずばりゾンビが出てくる『FUGAKU 1 / 犬小屋のゾンビ』を見て、ああそうそう、そうだよな、と思ったのだった。
 病で植物状態になった娘を持つピカピカ教授の依頼を受け、数台の16mm映写機とありったけのフィルムの切れ端と共に教授の待つ「犬小屋」を訪れる映写技師・K。だが彼が映写するのは、映像が定着したなんらかの映画作品でも、感光してない真っ黒なフィルムでもなく、そもそも映像を定着させるための薬品すら塗布されていないクリアフィルムでありそこに書き込まれた形状の影なのである。
 青山自身が演じるピカピカ教授は、「色彩で世界は変えられない」のだと、「モノクロサイレントの時代には光と共にあった音が、色彩の誕生と共に失われた」のだと、繰り返し嘆く。彼はその失くしたものを、そこで失くしたわけでもないのに、「光があるから」という理由だけで、湖のほとりで探しているのだった。彼は娘を「生ける屍」と形容し、彼女を甦らせるために16mm映写機とフィルムの切れ端を用いた実験=儀式を行う。教授の創案によるその実験=儀式はもちろん成功するのだが、実は教授と、映写技師やその他の実験=儀式に召喚される若者たちの間には、どこか当の実験=儀式に対する認識の違いがあるように見えて、むしろ実験=儀式を成功させるのはその認識のズレそのものだ、という理由のない確信を抱く。教授は娘を「生ける屍」つまり「生きているけれど死んでるのと同じ」だと認識しているが、若者たちは「生ける屍」を「まるで死んでいるような生」とも「まるで生きているような死」(『EM』の死体のように)とも解釈せず、ゾンビの別名である「リビング・デッド」の字面通り、「生きている・死んでいる」という形容矛盾そのものとして認識しているかのようなのだ。映写技師・Kは、生きている反応を示すことがない教授の娘について、「でも波動は伝わるんですよね」とこともなげに言ってみせるのだった。
 この死者と生者の饗宴たる実験=儀式は、『エリ・エリ〜』の平原のライヴとも、『サッド ヴァケイション』のフワフワと舞う巨大なシャボン玉と共に鳴り響くアルバート・アイラーの「ghosts」とも違った、「『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』時代の青山真治」の死者との付き合い方を高らかに歌い上げている。なにより感動的だったのは、ミキサーのフェーダーが上げられ音楽が鳴り出す直前、一台また一台と光を放出しだす16mm映写機を真正面からとらえたカットで、なにも映っていない透明なフィルム越しの光が、シャッターの羽の回転に合わせて瞬くのを見たときだった。なんだ、音あるじゃん、と、光と共に音あるじゃん、とこともなげに思ってしまったのだった。

「特集/青山真治」渋谷ユーロスペースにて11/4まで。「FUGAKU」三部作は10/31 18:30〜も上映あり