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December 1, 2018

『現像液』フィリップ・ガレル
結城秀勇

[ cinema ]

 高い位置に据えられたベッドの上にうずくまる子供の影が、懐中電灯の光でグロテスクなほど巨大に、壁に投げかけられる。右側下方にパンをしていけば、呆然としている女がいる。男が部屋に入ってきて、彼女に酒のようななにかを飲まそうとするがうまくいかない。長いタバコをくわえさせるが、彼女が吸わないのでマッチを近づけても火はつかない。そこでより長いタバコを彼女にくわえさせ、反対側を男がくわえて、ちょうど真ん中に火をつける。煙が昇り、ひとつの長いタバコは、半分の長さのふたつのタバコに分かれる。
 この映画のファーストシーンを前に、言うべき言葉が見当たらない。強いて言うなら、たった一言、完璧だ、そう言えば済むのではないか。
 男と女は子供の父と母であるようだが、子供はどこか疎外されている。また男と女の仲もうまくはいっていないようだ。彼ら3人は画面には映らないなにかから逃げている。懐中電灯のスポットライトが森を包む闇を破り、そこに男や女の姿が浮かぶとき、「まるで車のライトの光の中に飛び込んだ蛾のように狂った動きで」(フィリップ・アズーリ)、彼らはそこから逃げ出そうとする。
 彼らの逃亡の道行きで家のようななにかを形成するのは、コートから取り出されるあまりに小さなシーツと枕だ。そこには彼ら3人が同時に横たわるスペースがないばかりか、一番小さな子供が手足を充分に伸ばす余地さえもない。そこに変わりばんこに他の誰かを押し退けて、彼らは横たわる。彼らの家がちゃんとした建築物のように見えるときでさえ、それは客席を持つ演劇の舞台に過ぎない。
 その不完全な家族の有り様を象徴するのは、まるで宇宙船のような電飾で彩られたトンネルの向こうで、小さな十字の柱に縛られた母を幼い子供が解放する場面だろう。子供は彼女の両手に代わる代わる口づけし、抱きしめる。まるで母と子が反転したピエタのように。
 だがそれはイエスとマリアの役割が逆転した、というだけには止まらないだろう。アズーリは『記憶すべきマリー』にも、本来イエスの死骸を抱きしめるはずのマリーが、逆に横たわり誰かの抱擁に包まれる場面があると指摘する。そこで彼女たちは、母親と子供の絆ではなく、産んだとたんに己から切断され、決定的な絆の断絶として存在する子供について語る。
 手にしたスプレー缶から放出する毒の霧を撒き散らしながら(それが毒であったとはアズーリの解説ではじめてわかったが!)、父と母から離れて、幼い子供は逃亡の道行きを続ける。川の流れを長靴で踏み越えていく先には、強い風のせいで打ち寄せる波がまるで海のように見える、湖がある。白鳥が、波に漂う。『現像液』というなにも記録されていないサウンドトラックをもつ無声映画は、まるでランボーが沈黙へと至る道を辿る過程で渡った地中海を思わせる湖の前に佇む子供のイメージで終わる。ふたつに焼き切られるタバコのイメージからはじまった映画は、断絶を回復するのではなく、その切断をどこまでも押し広げ、決して逃げ切れない逃亡の、果ての果てを目指す。
 「ふたつの道がある。ひとつはランボーやアルトーが辿った沈黙へと至る道。もうひとつの道は演劇、パフォーマンスという道だ(......)沈黙を経由してはじめて言葉に戻ることができる。そのときはじめて、「本当か嘘か」という演劇の問題に入ることができる」(フィリップ・アズーリ)

交差する視点 日仏インディペンデント映画特集『現像液』

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