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July 17, 2019

『旅のおわり世界のはじまり』黒沢清
結城秀勇

[ cinema ]

 それこそ某バラエティ番組のタイトルのように「世界の果て」と呼びたくなるような、ウズベキスタンの景色。あまりに巨大すぎる人造湖や、どこまでも広がる平原、人でごった返すバザール。だがぼんやりと見ているうちに思うのは、それが「世界の果て」まで来たからこそ目にすることができるありがたい映像として撮られているかと言えば、まあそうではないということだ。
 劇中で撮影されている16:9サイズの番組用映像と比較すれば一目瞭然なように、撮影クルーたちを取り巻く景色は彩りを著しく欠いているし、番組用の映像よりは解像度も高いはずなのに、映像の表面は画素感でザラついていて、まるで砂埃にまみれているかのようだ。画面に映し出されるもののひとつひとつはたしかに日本では目にすることができないものかもしれないが、それを見る見方自体は「世界の果てまで来たらこんなふうに見えちゃうんだ!」という驚きや新鮮味にあふれたものなどではなく、むしろ世界の果てといえど我々の住むこの世界の地続きでしかないのだという倦怠に近いもののようにさえ思える。
 そして番組のレポーターを務める葉子(前田敦子)が置かれた状況にもまた、同じことが言えるのかもしれない。彼女の苦境とは、住み慣れた場所を離れて、言葉も風習もわからない場所で、恋人から遠く離れていることで、初めて生まれるような類のものではない。穴が空くかもしれない防水パンツで水に腰までつかること、生焼けの米をおいしそうに食べなければいけないこと、舟に女が乗っているから魚がとれないと罵られること、機材車のバンの中で窓越しに住民の視線を感じながら着替えをしなければならないこと。ディテールの違いこそあれ、我々が普段日本で経験する困難と大差はない(もしそうではないと思うなら、あなたがただ幸運なだけだ)。ハラスメントという暴力、官僚主義的な手続きの中で失われていく喜びと達成感、それらは世界の果てまでついてくる。
 もし葉子がこのグローバルな権力構造の純粋な被害者であるというだけであれば、観客はもっと容易に彼女に共感したり応援したりできるのだろう。だが実際には、彼女自身が自らを苛む構造の一部をなしているのだということに、観客はかなり意識的にならざるを得ない。たとえば、プロフという米料理の取材のために訪れた食堂では、薪がないので料理ができないと女主人が言う。「見た目だけ」ちゃんとしてればいいのだとディレクターは言うが、だがそれでは「料理ではない」と女主人は答える。生焼けの米を無理矢理食べた後、女主人はちゃんとつくりなおしたプロフをお土産に持たせてくれるが、ホテルでひとりそれを頬張る葉子の顔からは「見た目だけ」のプロフとちゃんとした「料理である」プロフの間に横たわるはずの、本質的な違いをうかがい知ることができない。
 彼ら撮影クルーはここウズベキスタンに「いい画」を撮りに来ている。しかしその「いい画」がなんなのかという共通理解がクルー間に存在するようには見えない。だが少なくとも「見た目だけ」ちゃんとしたプロフが「いい画」ではないことには気づいているようだし、決して捕まえることができない伝説の怪魚を前に、砂を噛むような疲労だけが蓄積していく。このやり方ではうまくいかないことに薄々気づきながらも、他の選択肢が見つからない。彼らにとって「いい画」とは、葉子個人にとっての「歌」のようなものかもしれない。ある朝ホテルの食堂で、葉子は突然、私が本当にやりたいことはレポーターではなく歌なのだ、とカメラマンに告げる。じゃあここで歌ってよ、と、それほど重要な告白を聞いたという様子もなくカメラマンは言うが、葉子は「心がついてこない」ので歌えませんと返す。
 歌を歌うためには「心がついてくる」必要がある。たぶん「いい画」にもそれに似たなにかが必要なのだろう。だがその「心」とは、単に葉子の情動に従うことではない。「かわいそうな」ヤギを解放したり、自分でカメラを回したりすることで、葉子は「反射」するだけのレポーターという仕事の枠を越えてより主体的に番組制作に関わるようになっていくが、極論を言えば、そんな程度のことでは微塵も状況は変化しない。手に持ったカメラのモニターに映る映像だけを見つめて、まったく周りを見回すことなく、迷子になってしまうだけだからだ。「いい画」に必要な「心」とは、彼女の主体性単独で成り立つのではなく、世界自体の構造上の変化をもまた必要とする。
 『旅のおわり世界のはじまり』において、それは一種の崩壊のかたちで起こる。だがあれは、我々が後戻りのできない地点まで来たことを示していたのだろうか。それともギリギリのところでかろうじて踏み止まったことを示していたのだろうか。その解釈は見る者によって異なるだろうが、個人的には後者のような気がしている。このうんざりする世界が焼き尽くされて、その焼け跡の向こう側へたどり着くわけではないだろう。途切れ目なく広がる単調な景色にぽっかりと空いた穴から、世界の果ての向こう側をほんの少し垣間見るのだ。
 前田敦子が主演した黒沢清作品である『セブンスコード』においても、彼女の存在はそのようなものであった気がする。人外の領域まで踏み込んで怪物になるのではない。ギリギリのところでこちら側にいながら、向こう側を重ね合わせる。コード全体の雰囲気を大きく変えることなく重ねられるセブンスコードの4つ目の音のように。葉子は怪物にはならない。その代わりに白くてけむくじゃらの怪物を育てるのだ。

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