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March 12, 2021

《第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって》『ルーベ、嘆きの光』アルノー・デプレシャン
池田百花

[ cinema ]

 ルーべの警察署を記録したドキュメンタリーをもとに作られたこの映画では、登場人物のほとんどが実際に街に住む人たちからなり、主要人物である新米刑事のルイ(アントワーヌ・レナルツ)と警察署長のダウード(ロシュディ・ゼム)、そして彼らの調査対象となるクロード(レア・セドゥ)とマリー(サラ・フォレスティエ)というカップルの4人だけを職業俳優が演じている。主人公であるダウードは、家族を持たず、昼夜仕事に徹していて、彼自身の生活はほとんど見えてこない。今回の上映に際して行われた、アルノー・デプレシャン監督と青山真治監督を迎えた対談の中でも、この映画の原題Roubaix, une lumière「ルーベ、光」は「ダウード、光」でもおかしくなかったほど、彼は街を具現化したような存在だとデプレシャンが話していたように、観客の目にはダウードと街が重なって見える。そして物語は、最初は事件の被害者として登場するクロードとマリーが、後に同じ建物に住む老人女性を殺害した容疑をかけられるところから、彼女たちを中心に展開していくことになる。
 クロードとマリーが罪を告白した後、ダウードが、別々の部屋に入れられた彼女たちのもとに向かい、それぞれと話す場面があるのだが、その一連のシーンがずっと引っかかっていた。彼はまずクロードのもとで語り始める。彼女は小さい頃から美人で、それゆえに非情で厳しいところもあるが、何もしなくても誰からも好かれていた。しかし昔は何もかもうまくいっていた彼女も、ある年齢になると人生の厳しさに直面し、気づけば30歳の子持ちで、「愛していない女」、すなわちマリーと一緒に暮らしている。一方でマリーは、自分の容姿に自信がなくて教室の隅にいるような女の子だったが、ある日、クロードと出会ったことで、これでもう大丈夫、と救われたのだとダウードは語る。このように彼は、どこまでが本当でどこからが想像なのかわからない話を滔々と物語るのだが、なぜいきなりこんな話をするのか。もしかしたらここで彼がしているのは一種の神話を作り上げることであって、それによってクロードとマリーは、彼が形づくった神話上の人物へと高められているのかもしれない。なぜならデプレシャンの映画における登場人物たちは時に神話と密接な関係を結んでいて、実際、この場面が引き継がれるシーンも、ある神話をもとに生み出されているからだ。
 続くシーンでは、この恋人たちが最後に一緒に過ごす短い時間の間、護送車の助手席に座るクロードが、後ろに座るマリーのほうを振り向き、そうするとマリーは安心したように眠ってしまう。デプレシャンによると、ここで自分の頭の中にあったのはダンテの『神曲』の天国篇で、ダンテがベアトリスに出会って彼女が振り向く時、彼女の睫毛がバタバタ上下する動きを撮りたかったのだという。クロードにとってマリーはずっと「愛していない女」で、彼女たちの間にはマリーの一方的な愛しかなかった。しかしクロードがマリーを眼差すこの瞬間、ふたりははじめて愛し合うことができる。ここでふたりの間に言葉はないが、何よりもクロードの眼差しがその愛を証明している。
 眼差すということに関して思い出されるのは、映画の中盤くらいでダウードの唯一の家族として甥が登場する場面だ。刑務所にいるこの甥は、面会に訪ねてきたダウードに罵声を浴びせながら暴れ出す。甥はダウードのことを見ようとせず、彼が視界に入ることさえ嫌がるほど心底憎んでいることがわかる。映画を見ていると、夜のルーべの街を歩き回るダウードの姿が印象に残るが、彼は、警察署長という職業にありながら、自らの足で人々に会いに行き、寝る間も惜しんで働いているような人物だ。しかし街の人たちは常に警察というフィルター越しにしか彼のことを見ることがない。そして甥との短いながらも強烈な一場面ですでに提示されていたのは、唯一、そういうフィルターなしにダウードのことを見ることができるはずの肉親でさえ、彼を視界に入れることを頑なに拒否しているということだった。
 再び護送車でのクロードとマリーの描写に戻ると、ふたりの間でほんの一瞬、視線が交わされた後、眠るマリーを見つめるクロードの視線は窓の外に移る。するとルーベの街は朝を迎えていて、そこには雨が降っているのだが、彼女はそれを見て、ここでもまた涙を流す。すると次の瞬間、ひとすじの太陽の光が差してくる。まさに『ルーべ、嘆きの光』というこの映画のタイトルが浮かび上がってくるような場面だ。先に挙げた対談の最後で女性たちが泣くことについてデプレシャン監督が話していたことは、おそらくこの場面にも通じるだろう。彼によると、女性たちは涙を流すことによって再び自分を取り戻すことができるのであって、青山監督の作品(『空に住む』や『ユリイカ』)では、その涙が、たとえば、泣くことができない若い女性が最後にようやく涙を見つけるというように、いつも遅らされているのだという。そしてそのことが彼を感動させるのだそうだ。しかしここで窓の外を見つめて泣くクロードの影に、もうひとり、涙を流す人物の姿を見ることはできないだろうか。それは、これまで自分のもとに訪れる人々(とりわけ女性たち)に涙を与えてきたダウードの姿だ。彼が泣くところは直接的には描かれないが、彼がルーべの街を具現化する存在だとすれば、護送車のシーンでその街に雨が降ることは、彼自身が涙を流すことの象徴でもあると解釈できる。するとその時、クロードが太陽の光で照らされるのと同様に、ダウードのもとにも光が訪れることが予感される。
 さらに、こうして物語の最後に遅らされてやってくるのは涙だけではない。すでに述べたようにダウードは、彼がその生活のほとんどを捧げる街の人々からは、警察署長という職業を介してしか見られることがなく、ただひとりの家族と言えるような人物からも、見ることを拒否されていて、彼自身の人生は孤独だった。ところが映画の最後で、ダウードが私生活で唯一の趣味にしている競馬を部下のルイと観に行く場面に象徴的に描かれているように、彼のことを見つめるルイという人物の存在が浮かび上がってくる。思い返せば作品の最初の部分でも、上司と部下にあたるふたりがホテルの屋上から街を眺めて話すシーンがあるのだが、その時からすでにルイは仕事上の関係に関わりなくルーべという街とダウードを見ようとしていた。こうしてクロードとマリーをめぐって彼が作り出した神話は、彼自身の人生と溶け合っていく。すなわち、ベアトリスになぞらえられたクロードが、眠るマリーを眼差す一瞬に、確かな愛が生まれるように、ダウードに向けられた眼差しは、彼に対して愛が許され、彼が自分自身の人生を取り戻すことの証明になっている。これまでのデプレシャンの作品で描かれてきたように、この映画もやはり、愛を手に入れられなかった人物たちが、愛を取り戻していく物語のひとつなのかもしれない。おそらく、彼らはその時を待つことしかできないし、それはそういうやり方でしか実現しないものなのだろう。しかしそれでも彼らとともにそれを待ちたいと思う。遅らされた涙が、眼差しが、ひとすじの光とともに人生を運んできてくれる時を。

映画批評月間 〜フランス映画の現在をめぐって〜 vol.3 特別オープニング上映イベントにて上映

第3回 映画批評月間:フランス映画の現在をめぐって

  • カンヌ国際映画祭2019からパリへ(2) 『ルーベ、ひとすじの光』(英題:Oh mercy!)アルノー・デプレシャン - 坂本安美の映画=日誌