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May 4, 2022

《第17回大阪アジアン映画祭》『遠くへ,もっと遠くへ』いまおかしんじ
塚田真司

[ cinema ]

ID03_Far away,further away_main.jpeg いまおかの作品は、その気の抜けたような世界観や緩い文体とは裏腹に、毎回生命と愛の叡智を感じさせられ、思わず涙が溢れるのだが、今回も例に洩れずであった。
 小夜子(新藤まなみ)は将来を描けない夫婦生活に倦怠を感じており、離婚を考えている。友人からのアドバイスで離婚後の住居を探している最中に、彼女は不動産屋に勤務する男、洋平(吉村界人)と知り合う。二人は距離を縮めていくが、やがて小夜子は洋平が突然失踪した妻に未練を残していることを知る。小夜子は「奥さんに会ってはっきりさせるべきだ」と洋平をけしかけ、二人は僅かな手掛かりを元に北へ向け旅を始める。
 人生への強い想念を描いたロードムービーだが、その出発点において最も興味深いのは「不動産屋」である洋平の立ち位置である。「不動産屋」と言う響きは、どこか抒情性に欠け、無機質にも思えてしまう。しかし、そうした印象や固定観念を拭い去るかのように、彼の職業は本作の世界観を強固にする芯柱の役割を果たしている。思えば不動産屋とは、生活の拠点としての家を提供する職業だ。家では独り身や夫婦共同などの様々な家族形態があり、そこでは毎日を支えるための食事と睡眠が営まれる。言わば「生活」の表象と言えるであろう。しかし、物件を紹介する立場である職業人の洋平は、生活の領域に足を踏み入れることなく、その域外で新生活の幕開けをただ見つめるだけの存在に留まろうとする。

生活を俯瞰しながら観察すること。
「生活」を辞書で引くと「生存して活動すること、生きながらえること」「世の中で暮らしてゆくこと」との定義が出てくるが、その範囲に参加しない洋平は、言わばそこから遠く離れた存在であり、「娯楽」あるいは「ペシミズム」に身を留めていると言えるのかもしれない。

 しかし、本作が促すのは決して快楽・厭世主義な逃走ではない。表題の『遠くへ,もっと遠くへ』には何か果てしない逃避行へのイメージを思い描くかもしれない。しかし通念的な「逃避行」に対して、本作は人々の生業を否定しない態度を保ち続ける。洋平は小夜子と共に北の大地へと飛び出すが、旅のために仕事で休暇を取ったことが台詞で示され、出発点に配置された不動産屋が持つ役割から大きくかけ離れることはない。その後二人は洋平の妻が働いているとの手掛かりを掴み、ある製品工場へと向かうのだが、決まりきった作業を延々と繰り返す仕事場は恒常的に流れていく日々の情調を肯定する装置のようだ。たとえどんなに遠くを目指そうとも、不動産屋であることに自意識な洋平の傍ら、繰り返されていくその製品工場の光景は、人々の何気ない暮らしに希望を示しながらも、傍観することさえ厭わないいまおかの視点を冒頭から裏付けるものとして見えてくるだろう。
 またある場面で、洋平は失踪中の妻を寝取っていた男の住所を突き止め、彼の元に大胆不敵に乗り込む。しかしそこで生じた他者への憤りは、決して安易な敵意へと変わることはない。なぜなら夜中の奇襲の際に片手に持っている武器は、先端の尖ったものではなく、丸みを帯びたおたまだからである。このようにいまおか作品の肝とも言える不条理な愛嬌は、本作で描かれるような人間関係の縁故に通底しつつ、その間に生ずる憤りさえも愛でたある種のディテールとして浮き彫りとなる。堕落に陥らず、目の前にある人々の生命を無条件に認め、嫌いなものにまで愛情を感じることは出来ないかもしれないが、嫌いなものを愛することは出来るはずだと。

 生活を俯瞰し、そして観察する不動産屋の逃避行は、そうした無常観から常住観へ向かおうとする豊かな試みへと昇華されていく。途方に暮れていた洋平のまなざしは、まるで映画を撮影するカメラのように自身の生活風景に少しずつ事実と変化を見出し、我々はその過程をこの映画の中で目撃することになるだろう。

第17回大阪アジアン映画祭にて上映
2022年8月13日、新宿K'scinemaにて公開決定

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