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June 13, 2022

『日本の痴漢』渡辺護
千浦僚

[ cinema ]

 石井隆監督の死を知りがっくりくる。
 訃報を知る少し前にも原作、脚本作である『赤い縄 果てるまで』(監督すずきじゅんいち 脚本石井隆 87年)を見直して感銘を受けたばかりだった。
 『赤い縄~』は何度か観てるしDVDも持っている(ピンク四天王直撃世代なので佐野和宏映画の主演女優としての岸加奈子さんへの崇敬やみがたく、その初期代表作をソフト所有する誘惑に抗えなかった)のだが、数日前にシネロマン池袋での三本立て上映を観るうちの一本としてたまたま入っていたため意識して観る感じではなく、他の映画を続けて観る体力温存のため薄目で見流そう、と思いつつ、次第に引き込まれ、居ずまいを正して観ざるをえなかった。主人公の日常が崩壊する前にリビングのテレビで流れているのがどこかの大規模な山火事のニュースであり、80年代っぽい無機質さ情の無さをたたえた部屋のなかでモニターだけがにっかつロゴのディープオレンジの空のように色づき、それがラストカットの雨中の女体吊りの傍らの焚火と照応するかのような、壊乱でもあり温もりでもある炎を予告するようなところがあったと、スクリーンで見直した効用も感じたし、「天使のはらわた」ユニバースでエデンの園には戻れぬ男女の村木哲郎と土屋名美は様々に転生して出逢いなおしそこでこのうえなくディープでメロウでハードなドラマが起きるが、では村木と名美が出会わない・揃わない話はどうなるかというと、その映画ではどこかしら日常は振り切られずその根が残り、村木・名美神話の番外編として一般的な社会生活家庭生活への批評の趣きが生じる(村木の物語としては『縄姉妹 奇妙な果実』監督中原俊 84年、名美側の話としてはこの『赤い縄~』)......、というようなことをつらつら思った。
 また、少し前に新作邦画『シャーロック劇場版バスカヴィル家の犬』という映画を観たときも、後半に脇筋と思われていた人物からの語り直し(事件の動機解明、背景説明)がおこなわれて、アレ?このひとのほうがむしろ主人公か!というようなキャラ配分のエモーション重心シフトが起きていることに、観ている最中に、ああ、これ『人が人を愛するどうしようもなさ』(監督脚本 石井隆 07年)の津田寛治さんだわー、と思ったし、友人なんかには『バスカヴィル家の犬』の広末涼子と渋川清彦と椎名桔平は、『人が人を愛するどうしようもなさ』の津田寛治!を力説して、別の固有名詞を押しすぎてたとえがわかりづらいと言われたりしていたのだが。
 5月22日には石井隆監督は亡くなっていた。
 そんなことは露知らず、ここ二十数年ほどそうしているように、氏が脚本を書かれた過去作を楽しみ、他作品の評価に氏の脚本・監督作を個人的な基準として引いたりして、その作品群と石井監督の存在感は自分のなかでは不滅なのだが、もうそのひとがおらず、この先新作が来ないのだということに打ちのめされ落ち込む。
 石井隆作品を観る以外何もしない引きこもり状態になりそうだったので(それはそれで随分幸せだろうが)、それを打破するために横浜の光音座に。お目当ては『日本の痴漢』(監督渡辺護 脚本ガイラ・チャン 80年)。
 ......『日本の痴漢』は予測をはるかに超えるくだらなさ!であり、久々に訪れた光音座のハッテン場ぶり悪場所ぶりは微笑ましくもえげつなく、毒を以て毒を制す、私はひとまず甘美な鬱の沼に向かう道から逸れた。映画について何も言うこと書くこともないのだが、若干のメモを残しておこう。
 『日本の痴漢』は誰しもがそのタイトルから推測するようにおおよそは『それゆけ痴漢』(監督山本晋也 脚本山田勉 77年)のヴァリエーションもしくはパラレルな映画であった。そういう、同一原作映画化やリメイクでもないのに、一種の変奏であったり、画面の共通や一致を持つ複数作品というのは映画史上多々ある。たとえば、フィルムノワールの代表作であるジャック・ターナー監督の『過去を逃れて』(47年)にはパラレル感ある、ロバート・ミッチャム&ジェーン・グリアの主演(+脚本家ダニエル・マンワリング)による活劇『仮面の報酬』(監督ドン・シーゲル49年)という照応があり、その他にも50年代後半アメリカのハリー・ジョー・ブラウン製作バッド・ベティカー監督ランドルフ・スコット主演の"ラナウンサイクル"と呼ばれる西部劇群や、同時に撮影されていたため背景セットなどが一部同じのゴダール映画『メイド・イン・USA』と『彼女について私が知っている二、三の事柄』(67年)のようなものが。もちろん"天使のはらわた"の村木・名美世界も。浅学な私が未見の作品を含んだ、渡辺プロ・山本晋也・久保新二人脈による"痴漢サイクル"が存在することを感じている。
 東京都内の深夜の公園渉猟に飽いた痴漢コンビが旅に出る、そこでむちゃくちゃなことをいろいろやる、という『それゆけ痴漢』の青姦礼賛傾向は、ほとんどジャン・ルノワール『草の上の昼食』(59年)の再来かと見まがうばかりの自然主義的描写であり、またその後半とオチの心霊性怪奇性はハーシェル・ゴードン・ルイス『2000人の狂人』(64年)に近く、つまりどちらにしろロケーションの映画(ピンク映画名物の伊豆・城ヶ崎海岸の吊り橋の風景も押してくる)なわけだが、『日本の痴漢』にそこまでのダイナミズムはない。
 『それゆけ~』では豪快に青姦カップルや痴漢自身の股間を針刺して釣り上げていた釣り竿も、『日本の痴漢』では新宿中央公園の片隅でスカートをめくり脱ぎ置かれたパンティをかっぱらう程度の小道具使いだ。そういえば『それゆけ~』は山本晋也監督の代表作群『未亡人下宿』シリーズ同様、にっかつに買い取られロマンポルノ枠で公開もされているが『日本の~』は釣り上げられていない。
 先頃までシネマヴェーラ渋谷では若松孝二初期映画が特集されており、そのなかのいくつかを観たことが『日本の痴漢』を観て感じることにもつながる。ピンク映画界の名物男、いまや長老的でもある久保チンさんこと久保新二氏は若松孝二映画『血は太陽よりも赤い』(66年)がデビュー作であるが(田久保新一名義)、あの石坂浩二や岡田裕介に先んじるおぼっちゃま美男ぶりを観てしまうと、ふざけ散らした『日本の痴漢』でも、スリーピースの背広、偽警官扮装時の警察官制服、女装しての婦人警官姿、すべてが基本的には実はこのひとはナリがいいのだな、という再認識が起きる。
 また、私は若松氏とやりとりあった知人から、若松氏が「俺はおまわりをぶっ殺したいだけで映画撮っていたんだよ」と述懐していた、その語りを直に聞いた、と教えてもらうが、60年代ジャズバー「木馬」や「ビザール」でたむろっていたところを足立正生氏、沖島勲氏に釣り上げられて若松プロに加わった異才小水一男(ガイラ)氏のアプローチはむしろ、"おまわり、その他のまともぶった奴らを笑いのめす"、だろう。『日本の痴漢』においてガイラ・チャンというペンネームでシナリオを書き、撮影も務めているガイラ氏は本作に隙間なくからかいを詰め込んでいる。久保チンさんとその子分が警官に扮して堂々と痴漢行為をはたらき、誤魔化しきれて咎められもしない、とか、所属している一流会社で三十名以上の同期ライバルを越えて係長に出世するのは引き立ててくれる部長が痴漢仲間であるためで、そこには諧謔がなきにしもあらずだが、それが尖ることなく埋没するぐらいしょーもなギャグが横溢する。久保チンが、ズボンのことはずぼん(自分)でやんなきゃ、などとつぶやきながら着替えたり、部長に媚びて自分のプレイを見せながら、出世というのはデルヨと書くのねアー出るよ出るよ、と叫ぶなんてのは広川太一郎ふうのアフレコ・アドリブ芸かとも思うが、久保チンが遅刻気味に出社してビルに駆け込む寸前に一瞬停止して、ここボクの会社!とつぶやいてポーズ、キャメラがビルに掲げられた銘にズームすると"久保ビル"、なんていうまったくどうでもいいワンカットなどは撮影の協同なくしてはありえないわけで、本作では、しょうもなさにおいてガイラさんと久保チンは完全にシンクロしている。若松プロ伝記映画『止められるか、俺たちを』(監督白石和彌 脚本井上淳一 2018年)での毎熊克哉が演じた、ニヤニヤして冗談ばかり言っているガイラさんはかなり本人に近い感じがあった。ただガイラさんの感覚というのは現代のマルキ・ド・サドみたいなもので、これがシリアスめに転ぶと批評の深い、涜聖的で暴力的なホラーを生む。『処女のはらわた』『美女のはらわた』(ともに86年)といった監督作、そのほかの脚本作、若松監督作『性の放浪』(67年)で一瞬出演する血刀ぶら下げた全裸の通り魔役などの小水一男の本質は、警官=痴漢、一流商社マン=痴漢、最後は主要登場人物の痴漢たちがミリタリールックに身を包んで行進する本作を『日本の痴漢』と題する狂気怒気の孕みかたにも表れてもいる。......監督渡辺護は何をしていたのだろうか。しょーがねーなー、と苦笑しつつサクサクと撮り流していたのではないかという気がする。ただ、軽くはあるが全篇的確に見える。中盤に久保チンと子分に新妻との夫婦生活を覗かれ、そのうえに踏み込まれて脅される健康優良児的な新婚男を熱演するのは、『戦争の犬たち』(80年)や、大島渚『戦場のメリークリスマス』(83年)で捕虜デヴィッド・ボウイを担当する兵隊さん役などで記憶に残る飯島洋一さん。
 ......言を重ねたが、本作は観たからといって人生にプラスになるものはほとんどなにもない映画である。特におすすめはしない!私は朝霧友香さんという憂いのある美人女優が好きなのでそれもあって観にいったが、彼女はメインではなく(メインは久保チンの職場のマドンナ役の高原リカ)、朝霧嬢の出番は万引きの濡れ衣を着せられて婦人警官に扮した久保チン(これが微妙に完成度高く、こういう大柄なオバサンいるなあ、という感じ)に身体をまさぐられる一幕だけ。
 ピンク映画の痴漢ものというのは結局のところ痴漢という性加害を軽めに、おもしろおかしく語り続けてきたという意味で、ポルノ映画というジャンルのなかでもいまは再検討され、到底再評価されない題材だと思う。名作古典の扱いでミニシアターの特集にも入りづらいだろう。その批判は必然、必要なものだろう。しかし現存する作品はピンク映画館のようなゾーニングされた場で、望む者にはアクセス可能であってほしい。細々とでいいから、ピンク映画、ポルノ的なもの、閉じられて、明るい場では語られず描かれないものも在りつづけてほしいと思う。