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June 15, 2022

『夜を走る』佐向大
渡辺進也

[ cinema ]

『夜を走る』©付.jpeg

 鉄屑工場に勤める秋本と谷口の生きるその場所の、さらにその外側に、いろいろなことが起きている場所があるように思われる。スマートフォンで見る海の向こうで起きた銃撃事件のニュース、車のラジオから流れるどこかわからない国の天気情報。それらは彼らとは関係のない遠い世界のことのようだ。さらに空間の捉え方においても特徴がある。秋本の姿を矮小化するように現れる巨大な工場、工場の中にある山となった鉄屑、鉄屑を分解するときに出る赤い火花。それらは働く彼らの姿の背後で圧倒的な存在感を示す。まるで世界で起きていることは彼らのあずかり知らない外側で起きていて、彼らはそれを自分とは関係のないどこかの出来事として捉え、それを見ることも、その当事者でもあることもハナから諦めているようでもある。
 しかし、彼らはその後自分達から縁遠いものであったはずの事件の当事者になる。その後、彼らがそれまでの態度そのままにいられるわけはない。その時のふたりの態度は対照的だ。谷口は自らを再び部外者の位置に置こうとする。谷口はそもそもその場所に居たくないし、自分が今いる場所さえもよく見ていない。妻の容貌の変化にさえ鈍感で、朝に家を出かけた時と何ら変わらないのに、出かける時の妻の言葉をまにうけて髪型を褒めたりする。他にも、秋本が女装した姿で目の前に現れた時にそのことを不審がるが、実際に気づくべきことは秋本が単に女装しているだけではなく、秋本が死体となった女性の着ていた服装そのものを装っていることであるのに、そのことに全然気がついてさえいない。
 一方の秋本は、女性の姿を完コピしていることで明らかなように、事件そのものから離れることなくその渦中に留まろうとする。ニューライフ研究所という新興宗教のようなところに通うようになるが、何ひとつ身になることを言わない(研究生が聞きたいと思っていることしか言わない)この場所は、つまり前進することも後退することもない一種の真空状態に置かれているようだ。だから、起きた事件そのものに留まりつつも事件後の出来事からは自分を守っているようでもある。はなれるか、とどまるか。その場所から遠ざかろうとする者、その場所に居続けようとする者、二人は例え同じ場所にいようともどこかズレていく。だが、決してどちらもそこでうまく振る舞えたとは言い難い。
 佐向映画で疾走することは、どこかに行くことも、どこかへ逃げることも意味しない。移動することはむしろ停滞と言えるのかもしれない。暗闇の中で走るときに自分がどこにいるのかわからないことがあるように。また、『まだ楽園』で自動車で移動するふたりがどれだけ移動しようともその先々に自転車の二人組と出会ってしまうことを思い出す。もはや逃げ場などない。というよりも、自分達が今生きている場所そのものだけがその場所であって、その外側などはじめからない。その時にいかに振る舞うのが正しいのか。その答えがこの映画で描かれるわけではない(そもそも正しい振る舞いというものなどあるのだろうか)。『夜を走る』は世界で起きていることそのことが対岸の火事などではなく此岸の火事であるとようやく認識した時に、人々がいかに振る舞うかの悲劇であり、喜劇であり、リアリズムである。

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