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June 16, 2022

『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』サム・ライミ
千浦僚

[ cinema ]

 初めてサム・ライミの映画を見たのは1986年あたり、小学校5年生、11歳ぐらいの頃か。高知市立第四小学校の校門真ん前のおうちのA藤くんとこに数人集まって、A藤くんのお兄ちゃんが持っているもんのすご怖いビデオを観る会、として。特に安藤くんと仲が良かったわけではなかったのにあれは何だったのか。
 ......という状況で観た『死霊のはらわた』(81年 日本公開85年)。いや、エグいし、怖いし......でも最高でしたね!そりゃ本気でビビッて、スプラッター描写にもショックを受けてるんだが、私は同じ頃に『デモンズ』と『霊幻道士』(ともに85年の映画 日本公開86年)という二本立てを、これは自分の近所の幼なじみの子どもばっかりで見に行ったりしていて、一般児童が自然に、本気で怖がることも娯楽として楽しむ体質を涵養しうる、そーゆーおおらかにスプラッターで野蛮な時代が80年代だった。こういう幼少期を送っているいま40代50代の映画好きはいま基準だと頭おかしい育ちかもです。
 『死霊のはらわた』の話を続けると、シェイキーカム撮影(つーかツーバイフォー角材にカメラくっつけただけ?)のくぐり抜けの動き、疾走感などは子ども心には意識されない躍動として、なんか動いて楽しい、迫力!だったろうが、死霊が憑依した女性の、だんだん変になっていく......の表現が、山小屋内の離れたところでやってるトランプ遊びのカードを、こちらに背を向けたままつぶやいてバンバン当てる、というのに、ギャッ!となる映像や特殊メイクとは違う、ジワジワくる説話的不気味を感じたし、それはちゃんと了解できた。振り返ったら顔が化け物になっててやっぱりギャッとなるんですが、その前段がよくできてるわけ。この、心霊的な能力が淡々とバンバンと千里眼を発揮する気持ち悪さ・怖さ表現は、1998年『リング』(監督中田秀夫 脚本高橋洋)の、まだ人間時代の超能力者貞子のパワー発揮場面で映画史上に再降臨する。......あと、『死霊のはらわた』はあの何の変哲もない、その辺に転がっている、黄色の外皮の消しゴム付き事務用鉛筆で足をぶっ刺し、えぐるというのがインパクト大でした。日用品を残虐の小道具にすることで、日常非日常が貫通されてつながって怖い。あの鉛筆がいまだ自分のアキレス腱にぶっ刺さってる。
 サム・ライミのその後のフィルモグラフィーで一番かっこよくて感動するのは『ダークマン』(90年)。主人公の爆死(と思われる状況)をその恋人が目撃するところからそのまま一気にもう葬儀になる場面のつながりなど、忘れがたい鮮やかさで。これはもうユニバーサル時代のヒッチコックみたいなものを狙ってるな、と、わかり、サム・ライミ侮れんな、と(盟友ブルース・キャンベルのカメオ出演が絶妙に機能するのも本作)。......かいつまみ回顧。シャロン・ストーン世代(ティーンエイジャーで『氷の微笑』(92年)に遭遇してる世代)ですからライミ西部劇『クイック&デッド』(95年)も楽しみました。これは、セルジオ・レオーネ監督『ウエスタン』aka『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』68年のチャールズ・ブロンソンの役をシャロン・ストーンに置き換えたような設定。あと、成瀬巳喜男か?っちゅうくらいせせこましく切ない銭の心配に満ちた鬱ミステリ『シンプル・プラン』(98年)も好き。この銭の心配がまた全面に出てきていたのが『スペル』(09年)で、なにせ、ヒロインが働いている銀行でちょっと出世したいがための実績づくりで厳しく取り立てをした相手の老婆から呪いをかけられるという、日常のいやらしさが発端の映画。地味地味な、野球試合中の延々と続く回想の映画『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(99年)も悪くなかった......。
 『スパイダーマン』3作(02年、04年、07年)は新機軸でありながらどこかライミ映画として矛盾がない感触で、特に、誰がこれを求めるのよ!という『3』のミュージカル要素には劇場で観て、エーってなってました。キルステン・ダンストの歌、トビー・マグワイアとブライス・ダラス・ハワードのダンス......これって『スパイダーマン』だよね、という。でも嫌いじゃなかった、あれ。やっぱ、意外と、クラシックな映画のルックを信じてる人だと思います。それをアメコミ・ヒーロー映画に入れてしまうという......。
 あと、監督作ではないですが、ライミ氏は『スパイダーマン』期に清水祟監督のオリジナルビデオ映画『呪怨』の同一本人監督ハリウッド再映画化『THE JUON 呪怨』(04年)をプロデュースしてる。この頃に私が新宿のロフトでやっていたホラー映画のイベントを観に行ったら、メインは小中千昭さんと高橋洋さんなんだけど、特別ゲストです、と清水氏が急遽登壇して、大注目でハリウッドに起用され作品も成功させた監督でありながら、小中・高橋がホラー界でその経歴、見識としては先輩だからざっくばらんに、「いや、清水くんなんでここにおんの?ハリウッドでサム・ライミと飲んどるんちゃうんか」「で、サム・ライミってどんなひと?」みたいな話をしており。清水祟監督は「もう用事なかったんで帰国しました。......サム・ライミ、むちゃくちゃいいプロデューサーでした。こちらを尊重して任せてくれて」とか言っていました。これは、岩波アクティブ新書で小中さんの「ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言」が出たことと、ユーロスペース製作の"ホラー番長"(清水・小中『稀人』(04年)、高橋『ソドムの市』(04年)を含む企画)の公開が絡んだイベントだった気がする。非常に方向性や定義がはっきりしたホラーというジャンルではその作り手とファンは敏感に、貪欲に、新たな恐怖表現、ショック表現を探究し、摂取し、そこである発明がされトレンドができると皆の感性が一斉にそこまで前進するんですが、そーゆー越境的ホラー映画ユニバースのなかでJホラーの技芸や作り手が世界に接続してる感じがあった。ハリウッドでのその受け手のひとりがサム・ライミだった。
 ......そういうことも過去にありつつ、正直、なんの期待もせず見に行きましたよ『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』。
 愛したサム・ライミはもうあんまり感じられないんだろうな、あのひとは大人だから、ビッグバジェットのアメコミ商売をそれなりにこなしたんだろうな、人混みに流されて変わっていったんだろうな、と。
 そしたら。ええやんけ、これ!あの頃の生き方をライミは忘れないで、開いた革の表紙のなかからやさしい目で、遠くからときどき私を叱って......みたいな映画だったんですよ、『~マルチバース・オブ・マッドネス』は!!
 ドクター・ストレンジは面白いキャラクターだと思っていたけど、サム・ライミが撮る意味がわからなかった。そもそも、ゼロ年代にはマーベル・ユニバースという、バルザック的人物再登場連結商法は確立されておらず、ライミ版『スパイダーマン』三部作はヒットはしたけど過ぎ去って忘れられたと。しかしライミ『スパイダーマン』のマグワイアは、トム・ホランド主演のシリーズ最新作『スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム』(2021年)で、パラレルワールドのピーター・パーカー=スパイダーマンとして再登場しており、この映画にドクター・ストレンジも重要な役で出てるところから完全に『~マルチバース・オブ・マッドネス』への伏線、サム・ライミ監督登板の花道は出来てたわけだ。
 『~マルチバース・オブ・マッドネス』、何に似てるかっちゅうたら『スペル』でしょうね。主人公側が魔女に襲われるほうで、圧倒的な戦力差というか、攻撃性と怨念の絶対値差があるので、逆ギレ逆襲ポイントが来るまでただ防戦一方、逃げ惑うしかないという状況。マーベル映画見に行って魔女の呪いの映画を観ることになるとは思わなんだが、それ以外のなにものでもなかい。キャラ設定上の重さ、怪物化した魔女の事情とは別に、場面が完全に追いかけ活劇の活きのよさを志向しているので、病んだような恐怖というより、娯楽的なキャーキャー!が実現されていて。地下水道みたいなところを主人公一行が逃げるくだり、追ってくる魔女と差が開いて、防爆扉の前で来るか来るか......来ないな......来たっ!というあの呼吸。楽しい。
 ベネディクト・カンバーバッチが美しい。私はあんまり男を見ても美しいとは思わないし、実は多くのこぎれいな男性アイドルは中性化したり女性的なものに寄せてキレイさを獲得しているだけで、世間はその「本来的な男のスタイルとは違うもの」を男の美しさと混同しているのではないかと思うんだけれども、それじゃないんだ。また、薄汚くする、無精髭生やす、マッチョになる、~オヤジと名乗って気取る、これはまた勘違いの醜悪の極み。『~マルチバース・オブ・マッドネス』のカンバーバッチの美しさと同じものはそういえば昔、ナマの西島秀俊氏で見たことがあるような気がする。2019年の東京国際映画祭、六本木TOHOシネマズの前で知人連中と屈託なくキム・ギヨンの映画の話をしてる西島さんを見てたとき、まわりとの対照もあって、うえっ、なんかこの男むちゃくちゃ美しいな、なんだこれ?と思った。顎や首のラインは飾り気なく無骨で、弱々しくも逞しすぎもせず、横顔や目線は澄んで、全体の姿が遠くに通るような存在感。キメてないふうの瞬間瞬間にむしろ満ちるものがある男性的なルックスの美。カンバーバッチのドクター・ストレンジ。だが、それも無傷ではいられない。全篇を通して彼は女性三人(超人的な、ワンダ=スカーレット・ウィッチ=エリザベス・オルセン、アメリカ・チャベス=ソーチー・ゴメス、常人だが叶わぬ恋の相手であるクリスティーン=レイチェル・マクアダムス)のあいだで右往左往する。クライマックスでは彼の、損壊し腐敗の進んだ死体が活躍する(正確にはドクター・ストレンジがパラレルワールドの自分の死体を魔術で遠隔操作して戦う)、というのだからやはり『~マルチバース・オブ・マッドネス』は面白い。
 私はマーベルスピンオフドラマ「ワンダビジョン」を観ていないが、『~マルチバース・オブ・マッドネス』の話はまあわかる。マーベルヒーローもの映画をほぼ全部観ていて、エリザベス・オルセン演じるワンダ=スカーレット・ウィッチが華々しく登場した『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』の記憶がそれなりにあることで、充分理解でき、不自由なかった。過去作品群の関係性が深く、相互の引用や言及が増えているマーベル映画について、新作を観るにあたってどれほど過去作の「復習」が必要なのかというのはよく取り沙汰されるが、ファン囲い込み商法ではあるものの、これだけの市場で興行される映画であるからには、詳しい客層と初見の客層という二重のラインを想定してつくられていて、いちげんさんの観客を拒むようにはなっておらず、まったく関連作品群を観てなくても楽しめる程度には開かれて出来てはいると思う。設定が最早ゴテゴテとしすぎてはいるが。
 ワンダakaスカーレット・ウィッチ=エリザベス・オルセンが表現する、女の怨念、というよりむしろ母性的な、よその子をさらって喰らうのに我が子を失うと泣き叫ぶという鬼子母神的な、母の嘆きと怒りのパワーと業(ごう)が素晴らしい。我が子恋しさが多元宇宙にまたがる最強かつ最凶の大暴れの由来だと。なんとかドクター・ストレンジが彼女に勝てたというか、抑えることができたのは、ストレンジがクリスティーンに失恋しており、ワンダの喪失感が汲める、彼自身もマルチバース呪法を用いて得恋する誘惑に駆られる(事実別の次元のストレンジは既にそれをやっていたりする)ことと、若い娘アメリカ・チャベスの能力伸張に賭けたため、という物語になっている。本編冒頭でいきなり、大の虫を生かすために小の虫を殺す的、トロッコ問題的な、必要な犠牲の論理に沿ってストレンジが行動し、アメリカ・チャベスの力を"きみには分不相応なもの"として取り上げるが、失敗する(ストレンジは死に、世界は滅びる)、ということが描かれる。全体としてはプラスになるんで、こちらのマイナーなほうは泣いてくれ、犠牲になって諦めてくれ。それを年長男が若い女に言う、なんてことは現実世界でいつも目にするあれであるから、そこで頑張ってくれないとやっぱヒーローではないし、それに巻かれてしまうならば死んでもしょうがない(それはパラレルワールドの出来事であって、観客なじみのストレンジは実は健在、また同じ戦いを再戦する、となっていくが)。本作には、「女に対するときの男の馬鹿さは死ななきゃ治らない、つーか、死ね」という主題もあった。『Xメン』シリーズの登場人物プロフェッサーX(パトリック・スチュワート)がこちらにも出ていて、ワンダをいさめようとするも失敗するが、その場面には既視感ある。『Xメン ファイナル ディシジョン』(06年)でも、ファムケ・ヤンセン演じる超強力テレキネシス&テレパシスト ジーン・グレイakaフェニックスの能力暴走でパトリック・スチュワートのプロフェッサーXは惨死していたので......。『Xメン ファイナル ディシジョン』のクライマックス、ヒュー・ジャックマンのウルヴァリンがフェニックスの能力で身体を破壊され、その痛みを感じながらも瞬時の肉体再生能力があるので、ズタボロのグチャグチャになりながら一歩一歩フェニックスに歩み寄っていく場面、変なんだが、泣ける。個人的には『Xメン』シリーズで一番好きな場面。どーでもいい話だが、東映映画『ウルフガイ 燃えろ狼男』(75年 監督山口和彦 脚本神波史男)にも、虎の爪のようにものを切り裂くテレキネシスを持つ女性(奈美悦子)に狼男(千葉真一)が身体を切り刻まれながらにじりよる、そこにはやはり男女の愛がある、という似た設定、場面があります。『~マルチバース・オブ・マッドネス』にもそれに通じるものがあったけれど、ロマンチックなマゾヒズムにはちょっと距離のあるチャラいドクター・ストレンジは破壊の女神に相対せず、だいたい逃げて、最後自分の死体を向かわせる。
 ......2019年頃にマーティン・スコセッシが語り、フランシス・コッポラやケン・ローチも賛同したという「マーベル作品は映画じゃない」は結構な衝撃であった。スコセッシ映画に影響を受け、リスペクトもあるマーベル映画の作り手連にはショックであったろうし、スコセッシ、コッポラ、ケン・ローチも、マーベル映画も等しく好き、という映画ファンもエッとなったはず。たしかに、総花的になっているマーベル映画(オールスターイベントの"アベンジャーズ"ものとか。旧い世代の日本人なら知っている、年末時代劇「忠臣蔵」感......)は悪い意味でのむちゃくちゃさ、バカバカしさも漂う。歴史的ヒットとなっていることも気持ち悪い。クロエ・ジャオのような監督が参画して(『エターナルズ』2021年)斬新なことをやっても、逆にマーベル映画全体は変わらず、その外にいた作家が取り込まれたような感じがした。
 だが、クリシェ的なものを本気で突き詰め、経験豊かな監督がその個性を潜ませて放った『~マルチバース・オブ・マッドネス』には、スコセッシの否定に反駁する力があった気がする。削ってくるもの、薄めてくるもののなかで、サム・ライミはまだ黒い芯をたかぶらせていた。
 スコセッシが規範やインスパイア源とするジョン・フォード、サミュエル・フラー、マイケル・パウエルもそれぞれの時代の"マーベル映画"だったのではないか。ヌーヴェルヴァーグはアメリカ映画のなかでも取るに足らない、通俗的で商業的と見なされていた作品やその作り手を顕揚することを出発点とした。マーベル映画が当たっている、高い興行収入をあげているから良いもので偉いのだという考えは持たず、なおかつ、スコセッシが疑っている、これが映画自体の価値が歪ませるほどの商業的見世物であるかどうかについて、即断して糾弾するのでなく観るなかで判断していくために、本作はマーベル映画のための有益有効な反論になりうる。『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』のマジカルで豊かな映画体験は否定できない。

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