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August 18, 2022

『戦争と女の顔』カンテミール・バラーゴフ
作花素至

[ cinema ]

phonto.jpeg 冒頭、超クロースアップの女性の顔がスクリーンいっぱいに広がる。その顔は不自然に硬直していて、か細い呻き声と耳鳴りのような音がはっきり聞こえるのに対し、周囲の物音や人々の声はくぐもっている。カメラが徐々に後ろへ下がっていくにつれ、「のっぽ」と呼びかけられたこの背の高い女性、イーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)が、職場である病院の一角で直立不動のまま「いつもの発作」を起こしていることがわかる。彼女はやがて不意に金縛りから抜け出すと、何事もなかったかのように仕事に戻っていく。今や聞こえてくるのは「正常」でクリアな物語世界の音声だけである。とすると、先ほどまでは金縛りの最中の彼女の聴覚がとらえていた音の世界を観客も耳にしていたようだ。
 イーヤは映画の中で繰り返しこの「発作」に襲われることになる。彼女は戦地から帰還して間もないソ連軍の元兵士であり、金縛りの症状がそのときの後遺症であることが示唆されている。だが発作の度に、観客は自らが奇妙な位置にいることに気づく。イーヤの聴覚を共有しながらも、同時に硬直した彼女の姿を外側から周囲の人々とともに見ているのだ。むろん、イーヤだけの特殊な金縛りの感覚を全的に再現=表象することなどはじめから望むべくもないことは事実である。動けない彼女の両目は開いているが、外界の対象を認識しているのかわからないし、そもそもあの耳鳴りや不完全な聴覚が彼女自身のものである保証もない。観客は彼女の発作について一種の約束事のような(そして実に簡素な)「しるし」を読み取り、了解しているだけである。
 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』に着想を得たという本作だが、イーヤは彼女の戦地での経験について終始ほとんど何も語らないし、観客が彼女の過去のイメージを見ることもない。一方、彼女の戦友であるマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)は、あるシーンで自分が「戦地妻」だったと語り出す。モチーフになったと思われる証言は同書の日本語版にも見つけることができる *1。彼女はそう語ることによって、国家の英雄であったはずの女性兵士が戦後のソ連社会においてただちに烙印と化したことを暴露し、口をつぐむ。終戦から30年以上を経てアレクシエーヴィチが取材を開始するまで、膨大な数の女性の従軍経験者は様々な圧力のために沈黙を強いられたという。その反面で、イーヤとマーシャが病院で世話をする男性の傷痍軍人たちは要人の表敬訪問を受けている。むろん彼らもまた苦しんでいるのだが、少なくともその苦しみはパブリックなものとして認められる余地がある。しかしながら、戦争が女性たちに残した傷跡と呼べるものを観客が直接的に覗き見ることはできず、イーヤの発作の感覚を様式的な屈折した形でしか把握できないのと同じように、常にその反映を通じて、あるいは分厚い被膜を通じてしか窺い知ることができないのだ。
 計り知れないものとしてある女たちの戦争。それは、取り返しのつかない出来事が起こった後の人々にまつわるこの映画の物語そのものにも言えることであって、その出来事とは直接的には戦争そのものではなく、戦後に発生した一人の子供の事故死なのである。確かに、その事故の原因こそイーヤのあの後遺症であり、さらに、マーシャが戦傷により子を産むための器官を失ってしまったことが彼女たちの軛となるのだから、すべてが戦争へと帰着することは間違いない。とはいえ、物語がいわば「二重底」をもつことによって、戦争をより深部へと遠ざけていることは注目に値するだろう。そして、戦争に対する隔壁が画面の中にも存在していると思われるのは、映画が密室を志向し、見晴らしを拒絶しているように見えるからだ。総力戦とスターリンの国家という、個人の私的領域をすっかり食い尽してしまう巨大な暴力の気配はひとまず壁の向こう側に遮蔽され、イーヤとマーシャは集合住宅の一室などのわずかに残された「シェルター」で二人だけの秘密を囁き合い、分かち合う。両者の服の色(緑と赤)は部屋の壁の色と韻を踏み、その内部に関係の絶えざるうねりをもちながらも、一つの完結した空間をつくっている。カメラもまた人々に対し親密と言える距離まで接近し、しばしばフレームは彼女たちの顔でいっぱいになるのだ。
 ところが、どんなに近づいても彼女たちはやはり固く沈黙を守っている。顔そのものがもう一つの壁として現れ、観客はその前で立ちすくむ。この映画が戦争は「表象不可能」であると考えているとは思わないけれど、そこに辿り着くための果てしない歩みは、自分たちに耳を貸す者のなかったイーヤとマーシャの歩みそのものなのかもしれない。彼女たちがアレクシエーヴィチに出会えるのはいつのことだろうか。

*1スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり訳『戦争は女の顔をしていない』岩波現代文庫、2016年、p.348